会津三十三観音霊場   第二十八番~第三十三番・番外
 
 第二十八番 第二十九番 第三十番
高田観音(高田山 天王寺) 雀林観音(雷電山 法用寺) 中田観音(普門山 弘安寺)
十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩 十一面観世音菩
観音堂は現在地より東北へ500m離れたところにあったが、寛永十三年(1639年)、現在地に移建され、天王寺が別当を務めている。

天王寺は番外・浮身観音のある龍興寺の末寺。

ご朱印は観音堂内に書置きが置いてあります。
寺伝によると、養老四年(720年)、徳道上人が開創、後に堂宇を焼失、僧・徳一が再建したという。

境内は結構広いです、観音堂の左手には立派な三重塔が建っておりさらにその奥に地蔵堂、本坊客殿があります。

本坊を訪ねましたが、玄関は開いているのですが不在の様子、別当の福泉寺さんに電話するとご朱印を頂けるとのことでしたので伺って頂きました。
弘安二年(1279年)、地頭・冨塚盛勝が伽藍を造営して弘安寺とした。

会津ころり三観音の一つ、観音堂内に抱きつき柱があります。

抱きつき柱にすがれば、死の床に際しても苦しまずに成仏でき、家族に余計な負担をかけずにすむということらしいです。

あと二つは三十一番・立木観音と番外・鳥追観音です。
平成25年8月12日 平成25年8月12日 平成25年8月12日
 第三十一番 第三十二番 第三十三番
塔寺立木観音(金塔山 恵隆寺) 青津観音(清光山 正徳寺) 御池観音(羽黒山 西光寺)
千手観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
寺伝によれば、現在地より北西約2㎞にある高寺山に、中国の僧・青岩が欽明元年(538年)に開創。

大同三年(806年)、弘法大師が千手観音像、二十八部衆を刻まれ、坂上田村麿がお堂を創建したという。

観音堂は建久年間(1190~99年)に現在地に移建された。
専用の納経帳が購入できます。
寺伝では、永禄十一年(1568年)、僧・松岩が青木村に堂宇を建立したのが始まりという。

慶長十六年(1611年)の地震により倒壊、その後、現在地に再建された。

この場所は亀ヶ森古墳だそうです。

ご朱印は歩いて5分ほどの淨泉寺さんで頂けます。
縁記によると、観音堂は集落の北にあったが、倒壊したため寛文のころ僧・重海が小庵へ仮安置、享保八年(1723年)、僧・郭端が西光寺の境内に移建した。

ご朱印は本堂に置いてあり自分で押すようにと書かれていました。

それなりに苦労してやっとたどり着いた結願の地としてはちょっと拍子抜けって感じです。
平成25年8月12日 平成25年8月12日 平成25年8月12日
番外 番外 番外 
浮身観音(道樹山 龍興寺) 柳津虚空蔵尊(霊厳山 圓蔵寺)  鳥追観音(金剛山 如法寺)
   
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩  虚空蔵尊
永禄二年(1559年)に船木兵太郎(後の天海大僧正)が12歳の時、霊夢によって浮目というところの水田より土仏観音像を発見。

後にこの土仏を模して木造の観音像をつくり、胎内に土仏を納め祀ったとされています。

ご朱印は本堂で富岡観音の分と両方書いて頂けます。
おまけにお経まで唱えて頂き感謝です。

本堂裏の蓮もとても綺麗でした。
寺伝では、大同二年(807年)僧・徳一が菊光堂を建立し、弘法大師作の福満虚空蔵菩薩を奉安したのに始まる。

茨城県東海村の大満虚空藏尊、千葉県天津小湊町の能満虚空藏尊と共に日本三大虚空藏尊の一つに数えられています。

何故観音霊場の番外札所になっているのかはよく分かりませんでした。

写真の山門は裏門です。
天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫された際、とある貧しい農家に宿をとり、念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになられました。

大同二年(807年)、僧・徳一は、坂上田村麻呂公の帰依を受けて、金剛山如法寺を創建し、御本尊に行基御作と伝えられる聖観音像を奉安、胎内仏に「鳥追観音」を入仏秘された。

御堂は、慶長十八年に再建されたものだそうです。
平成25年8月12日  平成25年8月12日 平成25年8月12日 
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