永禄二年(1559年)に船木兵太郎(後の天海大僧正)が12歳の時、霊夢によって浮目というところの水田より土仏観音像を発見。
後にこの土仏を模して木造の観音像をつくり、胎内に土仏を納め祀ったとされています。
ご朱印は本堂で富岡観音の分と両方書いて頂けます。
おまけにお経まで唱えて頂き感謝です。
本堂裏の蓮もとても綺麗でした。 |
寺伝では、大同二年(807年)僧・徳一が菊光堂を建立し、弘法大師作の福満虚空蔵菩薩を奉安したのに始まる。
茨城県東海村の大満虚空藏尊、千葉県天津小湊町の能満虚空藏尊と共に日本三大虚空藏尊の一つに数えられています。
何故観音霊場の番外札所になっているのかはよく分かりませんでした。
写真の山門は裏門です。 |
天平八年(736年)の春、行基菩薩が会津巡錫された際、とある貧しい農家に宿をとり、念持仏である一寸八分(約6㎝)の聖観音の御尊像をお授けになられました。
大同二年(807年)、僧・徳一は、坂上田村麻呂公の帰依を受けて、金剛山如法寺を創建し、御本尊に行基御作と伝えられる聖観音像を奉安、胎内仏に「鳥追観音」を入仏秘された。
御堂は、慶長十八年に再建されたものだそうです。 |