武相四十八観音霊場  第三十七番~第四十八番
 
第三十七番 第三十八番 第三十九番
瀧澤山 祥雲寺 大悲山 慈眼寺 金森山 宗保院
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
小田原・北条家が武運長久祈願、檀信徒帰依のために建立。

本尊は釈迦如来で観音堂は本尊に向かって左側に位置し正面に観音像、左に薬師如来が安置されています。

観音像は平安後期のもので伝教大師の作と伝えられています。

身代聖観音といわれ、厄除け佛として近郊に知られているそうです。
「群井沢の観音様」といって、群畑自治会館の正面、第二十五番・普門寺への途中にあります。

道路から石段を登ると、正面に観音堂、右手に墓地がつくられている。

観音様は安産守護に霊験があり、当地域においては難産になるものなしとあります。

四月八日と九月二十九日に例祭がある。
天文十一年(1542年)の開創、開山は相州伊勢原日向の石雲寺第四世・吸江詠怒大和尚。

本尊・千手観世音菩薩は土豪の大河氏の守り本尊であったという。

慶安二年(1649年)、徳川家光公より御朱印七石三斗を賜る。

第十回開扉時にはじめて観音札所に加わった。

小田急武相観音霊場の第十一番札所ともなっている。
平成23年4月2日 平成23年4月16日 平成23年4月2日
 第四十番 第四十一番 第四十二番
飯盛山 永昌院 金峰山 永林寺 白華山 慈眼寺
十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
天正十年(1582年)の開創
(本能寺の変があった年)

永昌院は観音堂の別当寺として創建された。

観音堂は文安四年(1447年)に禀庵という僧が興し、江戸時代には徳川家光公より観音領七石の御朱印をいただいていた。

現在の観音堂は境内の西にあり、大正八年(1919年)に再建されたもの。
ここは、由木氏あるいは滝山城主の大石定久の居城跡といわれ、大永七年(1527年)の開創、定久の叔父の長純の開山。

徳川家康公が巡拝の折り、朱印十石、公卿格式拾万石を受けて大名寺となるとあります。

文政六年(1823年)につくられた聖観世音菩薩は昭和五十五年(1980年)に建てられた三重塔の本尊として安置されている。

本堂の杉板戸の絵は、多摩市関戸の狩野派絵師・相沢五流の文政五年(1821年)の大作である。
文安二年(1445年)、畠中進江なる者一寺を建立発願、心安寺公に議し賛成を得て功を秦すという。

「新編武蔵風土記録」には本尊聖観音となっているが、現在の本尊は十一面観世音菩薩です。

伊予国豊田群・七宝山観音寺の写しという。

寺号は普門品中の「具一切公徳慈眼衆生」をとって名付けられたもので、観音信仰を中心とした寺であることが分かる。
平成23年4月9日 平成23年4月9日 平成23年4月9日
第四十三番 第四十四番 第四十五番
金龍山 信松院 大沢山 宗印寺 金光山 観泉寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
武田信玄の息女の松姫の開基。

松姫は七歳のとき、信長の長男・信忠と婚約したが、のちの武田と信長の不和から破棄された。

天正十年(1582年)に武田氏は滅亡し、松姫は和田峠を越えて現在の八王子市恩方地区へ逃れた。

そして心源院で学び、心松尼と称し、のちに御所水(台町)に庵を結んだ。

やがて参集した武田の旧巨に囲まれ、八王子千人同心に発展とあります。
京王線・平山城址公園駅から南東、丘陵中腹にあります。

昔安行寺無量院であった処と云われている。

その後、荒廃した同院を永林寺七世・傑秀賢鷲和尚が再興、曹洞宗として開山した。

開基は中山助六朗照守という。

観音堂は門を入って右手です。

境内には昭和十年(1935年)前後に建立された西国観音霊場の観音石造があります。
元和元年(1615年)、大阪の陣で戦死したこの地の地頭・飯田右馬助昌有の為、その子次郎右衛門昌重が開基。

昭和六十二年(1987年)の開扉から武相観音の霊場となったお寺さんです。

地名は真光寺町、地名の起こりは、昔、真光寺というお寺がいまの観音堂の付近にあり、そこから発したという。

本尊は行基作と伝えられる。
平成23年4月16日 平成23年4月9日 平成23年4月3日
第四十六番 第四十七番 第四十八番
一乗山 吉祥院 境国山 定方寺 渕源山 龍像寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
開山は応永年間とあるが他は不詳。

かつては横山十五宿の一つであった久保宿(日吉町)にあった。

昭和二十年(1945年)八月の八王子大空襲で全焼し、昭和二十九年(1954年)に現在の地に移転した。

昭和四十年(1965年)に戦火で焼失した聖観世音菩薩を再興造立したそうです。
慶長十五年(1610年)の創立。

相模原市と町田市に接するところで、山号のとおり、国境のお寺さんです。

創建当初は下鶴間字公所高木の境川流域にあったが、再三の水害にあって、元録三年(1690年)ころ現在の地に移ったものという。

聖観世音菩薩は本堂に安置されている。
龍像寺には大蛇退治の伝説があります。

歴応年間(1338~41年)ころ、境川に沿ってある龍池に大蛇が住み、大蛇は村人を襲い、村人は離散してしまった。

足利直義の家居・淵野辺義博が大蛇を退治し、退治された大蛇は三分され三ヶ寺に葬られた。

その後、三ヶ寺とも荒廃にてしまったが大蛇の霊が浮かばれないことを告げられた村人が三寺併せて一寺となし龍像寺とした。
平成23年4月16日 平成23年4月2日 平成23年4月17日
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