江戸三十三観音霊場 |
浅草から巡り始め、目黒で打ち納めとなる『江戸三十三観音札所』は寛永十九年以後、元禄十一年以前に成立した。江戸の『観音札所』はその後もかなり多くが成立している。
『昭和新撰江戸札所』は、これらにゆかりの深い観音さまを中心として、神仏分離その他。時代の推移によって消長を余儀なくされた霊場を補うに、衆生縁ゆたかな観音霊場を以てしたとあります。
(「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」:江戸札所会発行より) |
鎌倉三十三観音霊場 |
江戸時代の中期から末期に観音順礼が盛んになり、鎌倉郡にも鎌倉三十三ヵ所が成立した。しかし明治維新で廃寺、移転した寺が多く、大正から昭和のはじめにあらたに鎌倉三十三ヶ所が設定された。
(「鎌倉三十三ヵ所観音霊場巡り」:平幡良雄著より) |
那須三十三観音霊場 |
およそ三百年前の天保二年、下野・白河の観音百堂を巡拝し、寺堂ごとに歌を献じた巡拝記「下野・陸奥百観音巡礼記」(大金重貞記)がある。それは、東三十四、南三十三、西三十三観音の合わせて百寺堂(霊場)である。
後に東三十四霊場の内、主な寺堂、その他、南、西霊場から選び合わされ、那須三十三観音霊場が組織された。大正、昭和初期までは、これら百観音、三十三観音巡拝は盛んであったが、時の変遷とともに衰退してまった。
しばし時が過ぎ、以前のそれらを基とし、那須郡十市町村にわたる三十三ケ寺の結縁あって、現在の「那須三十三観音霊場」が再興されたとのことです。(公式ホームページより)
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安房国札三十四観音霊場 |
貞水(1231年)のころ、時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。(「安房国礼観音霊場巡り」:藤波重昭著より) |
新上総国三十三観音霊場 |
平成八年、現在の十五番圓鏡寺のご住職が発願、各お寺さんを纏め再興されたようです。
十月二十日、木更津の平野山高蔵寺で結成総会を開き、十一月十五日に芝山の観音教寺で開創発会記念法要が開かれたとあります。(「新上総国三十三観音巡礼」:水野通雄著より) |
東海三十三観音霊場 |
大正3年、赤坂仲之町紫雲会、当舎宝仁氏等の発願により創設された。寺院は、東京20ヶ寺、川崎8ヶ寺、横浜5ヶ寺、番外1ヶ寺。東海道沿いに所在する処より東海と名付けたものであるとのことのようです。
(「江戸・東京札所辞典」:塚田義雄著より) |
武蔵野三十三観音霊場 |
昭和十五年、郷土史家あった柴田常恵先生が発願、番外も含めて三十四の寺々を選定して結成されました。
平成五年、霊場会が結成されたとあります。(「武蔵野三十三所観音巡礼」:武蔵野観音霊場会編より) |
新上州三十三観音霊場 |
大間々町に生まれた、荻原好之助氏が発願。平成10年10月、三十三カ所設定完了、書籍六千部を発注とあります。
平成11年(1999年)に群馬県内の各市町村から三十三ヶ所の寺院が定められ発足した観音霊場です。
(「新上州・観音霊場三十三カ所」;新上州観音霊場会より) |
旧小机領三十三観音霊場 |
享保年間に、この小机の当たりに熱心な観音信者の竜野愛勝という人がおり、かねて念願する三十三観音霊場の創設を現在の三十三番札所・法昌寺の宋運和尚に図った。
和尚は同寺の朝庵和尚と共に、現在の一番札所・泉谷寺の転誉上人を訪れこの三人によって霊場草創の案が立てられた。
転誉上人から幕府に霊場開設が願出され、許しを得て享保十七年(1732年)、開創を見るに至った。
(子歳観音霊場会 公式サイトより) |
武相四十八観音霊場 |
開創は江戸時代中期。それぞれに信仰されていた寺院が連携して、その記念すべき第一回の御開扉を宝暦九年(1759年) に実施しました。
十二年に一度、卯歳に御開扉を行うので、卯歳観音と称しております。(納経帳表書きより) |
下野三十三観音霊場 |
江戸末期の創設といわれる。
宝永五年(1708年)、新里(現・宇都宮市)の高橋善左衛門吉勝という人が、下野三十三番を巡拝し、その記念碑を新里の地に建立しました。
吉勝は足利のばん阿寺に寺名、地名、観世音の称名、御詠歌等を版木に上木して奉納しました。(納経帳表書きより) |
多摩川三十四観音霊場 |
昭和8年の設立。
当初は三十三ヶ所であったが平成14年の御開帳を帰して、三十四ヶ所観音霊場となった。
(「多摩川三十四ヶ所 観音霊場札所案内」:慈眼会発行より) |
行徳・浦安三十三観音霊場 |
江戸時代から明治年間まで、行徳・浦安に「行徳札所」と呼ばれる三十三ヶ所の観音霊場があった。 江戸時代の中、後期江戸住民をはじめ、佐倉や印西・成田・木下・千葉など下総各地からたくさんの巡礼が訪れてきたが、明治の後半になって急速に衰え、消滅してしまった。
「行徳郷土文化懇話会」が札所めぐりを復活すべく各寺院を回って、掛札を作り寺に納め、同会によって昭和59年(1984)に復活された。(市川市ホームページより) |
東上州三十三観音霊場 |
宝永五年(1708年)、山田群西小倉村(現在の桐生市)の崇禅寺に一時住み着いた僧・暁観道心が創設したもの。
霊場は館林市、太田市、桐生市などの東毛地区に散在する。(東上州三十三観音札所めぐり:樋口正洋箸より) |
忍三十四観音霊場 |
忍秩父三十四観音霊場とも言うみたいです。
元録ニ年(1689年)に龍花院(騎西町)の観照和尚が忍領西国三十三観音霊場と共に創設しました。(観音巡礼:山田計司箸より) |
忍領三十三観音霊場 |
忍領西国三十三観音霊場とも言うみたいです。
元録ニ年(1689年)に龍花院(騎西町)の観照和尚が忍秩父三十三観音霊場と共に創設しました。(観音巡礼:山田計司箸より) |
安房郡札三十三観音霊場 |
江戸時代のはじめ頃に忠音坊・頼勢上人(総持院・中興第八世)が『戦国に散った霊魂の菩提の追善と天下和順を祈念し、現世に生きる庶民を苦しみから救うため』開創したと伝えられています。 |
猿島坂東三十三観音霊場 |
坂東市生子・萬蔵院の第五十二代住職、雄弁上人の開設。年代は享保年間(1716〜1736年)とわれている。(猿島坂東札所めぐり:山崎正巳箸より) |
相模新西国三十三観音霊場 |
蓮花院寺伝によれば、第八代将軍徳川吉宗公の治世、延享元年(1745年)乙丑年より巡礼、爾来丑年ごとに春彼岸より三十日間開帳奉修し、庶民に巡礼をすすめた。(佐藤菊治様hpより) |
葛飾坂東観音霊場 |
正徳四年(1714年)、下総国葛飾郡久能村(現在の古河市久能)の宝性院の住職・秀伝和尚の開創。
現在の古河市、五霧町、八千代町、野木町にあった三十三ヶ寺の同意を得て第一回目の観音ご開帳を行った。
その後、第三十四番札所、番外七ヶ所を加え四十一ヶ所霊場となります。(公式ガイドブック:「葛飾坂東観音御開帳」より) |
準西国稲毛三十三観音霊場 |
宝暦四年(1754年)に、武州橘樹郡稲毛領平(現:川崎市宮前区平)の山田平七翁が西国三十三観音霊場を巡拝して帰り、西国三十三体の観音さまを近郷に導きたまえと発願し、西国観音霊場になぞらえ、近郷の寺院三十三箇所の観音さまに、天下泰平・国土安全・五穀成就・万民快楽等の人々の幸せを祈念する霊場として生まれたのが始まり。(公式hpより) |
三浦三十三観音霊場 |
建久三年(鎌倉時代初期)、三浦半島の一帯に起きた大飢饉に人々は苦しんでいました。その時、長井(現在の横須賀市長井)に住む源義経の家臣鈴木三郎重家が、人々の救済を発願し三浦半島の三十三ヶ所の霊場を参拝して巡りました。すると霊験あらたかに忽ち、浜は大漁、陸は豊作となり、人々は飢饉から救われたといいます。それ以来その霊場を三浦札所と定め、毎午年を本開帳、毎丑年を中開帳として開扉供養をするようになりました。(三浦三十三観音札所会:公式hpより) |
津久井観音霊場 |
宝歴年間(約250年前)、津久井町根小屋寺沢の臨済宗建長寺派・雲居寺の大雲禅無和尚が津久井郡内一円にわたり宗旨、宗派を問わず観音様を祀る寺院に呼びかけて、雲居寺を大一番に群内を一巡して隣寺の長竹・来迎寺を打ち止めとする観音霊場を開設したことに始まる。(「津久井観音霊場札所ガイドブック」より) |
関東三十三観音霊場 |
千葉県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県にある観音菩薩を祀る寺院から構成される霊場である。平成元年(1989年)に開創された。 |
准秩父三十四観音霊場 |
眞福寺に残っている資料によると、1810年には既に始まっていたと推測される。(「集印帳」より)
横浜市港北区11、鶴見区4、都筑区5、川崎市中原区7、幸区3、川崎区4。
内二つの札所を兼務しているお寺さんが3ヶ寺あるため30ヶ寺、1堂で構成されています。 |
足利三十三観音霊場 |
令和3年、霊場会が発足し新たに観音霊場が組織されました。札所は全て足利市内にあります。
元々当地には、江戸時代開創と大正時代開創の霊場があったものの現状廃れており、今回新しい霊場としての選定、開創となった。 |