観音霊場一覧
巡った観音霊場設立の概要を簡単に纏めました。
霊場名をクリックすると各霊場のお寺さんの一覧が見られます。
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日本百観音●
秩父三十四観音霊場 秩父霊場の開創は一般には文歴元年(1234年)の午年とされている。現在午年ごとに各札所で秘仏のご開帳があるのはそのため。
誰によって創設されたかは特定できない。伝承では十三権者によって開かれたと伝えられているが、歴史的人物の時空の整合性は完全に無視されているとのことです。(「秩父三十四ヵ所めぐり」:JTBパブリッシング発行より)
坂東三十三観音霊場 坂東において三十三観音巡礼が成立した時期について明確な史料はありませんが、鎌倉幕府の成立がきっかけだといわれています。源頼朝は熱心な観音信者だったとのこと。
第一番札所が鎌倉の杉本寺であること、鎌倉、相模、武蔵に札所が多いこと、安房の那古寺を最終札所にしていることなど、鎌倉居住者に好都合になっていることが、鎌倉期成立説を有力なものとしているとのことです。
(「坂東三十三ヵ所を歩く」:山と峡谷社発行より)
西国三十三観音霊場 奈良前期、養老二年(718年),大和長谷寺の徳道上人が近畿地方の寺々に三十三ヵ所の霊場を設置し、巡拝を勧めることに努めた。しかし、徳道上人の勤化はあまり広まらなかった。
それから二世紀半あまりたった平安中期、徳道上人の霊験を知った花山法王がみずから杖をひいて主な霊場を尋ね歩いたことが巡礼が盛んに行われるきっかけとなったとのことのようです。
(「西国三十三ヵ所めぐり」:JTBパブリッシング発行より)
●東北地方●
出羽百観音
庄内札所三十三観音霊場 羽黒山荒沢寺 大恵東水和尚が、西国三十三観音霊地の御土砂を勧請して正徳四年(1714)鶴岡藤島周辺に三十三の観音霊場を定め、詠歌を詠み当国札所として開かれたのがその創始であり以来変遷を経て今日に至っています。(ホームページより)
 最上三十三観音霊場 山形城主最上家五代頼宗公の一人娘「光姫」は、熱心な観音信者でありましたが、その美しさの故に光姫をめぐる争いが絶えませんでした。それを憂えた光姫は出家し観音巡礼に旅立つのでありました。
途中、旅の見世物師と称する老人に出会い、一番若松から三十三番までの道筋を教えられましたが、この老人こそ観世音菩薩の変化したお姿だったのです。
一か月余りの苦修錬行の後、三十三番庭月観音にたどり着いた光姫のこころは観音妙智力により、清淨と安らぎを得たのでありました。その後も霊験を求め、あまたの善男善女が参拝するようになり、最上三十三観音巡礼が世間に広まっていったと伝えられています。(最上三十三観音巡礼マップ:最上三十三観音札所別当会より)
 置賜三十三観音霊場 直江兼続公の後室お船の方が、西国三十三観音になぞらえて定められたとも伝えられています。
(置賜三十三観音巡礼マップ:置賜三十三観音札所会事務局発行より)

 奥州三十三観音霊場 いつごろ設けられたかは定かではないが保安の頃、又保延ともいい、又更に古くみる説もある。
現在の札所は宝暦十一年(1761年)、気仙沼の三十番札所補陀寺の智賽和尚ら7人の僧達によって定められました。
(納経帖及び、奥州三十三観音の旅:河北新報出版センター発行より)
会津三十三観音霊場  会津藩祖保科正之によって、寛永20年(1643)頃に始められたと言われています。当時、伊勢参宮や熊野神社参拝、西国三十三札所巡礼による多額費用が会津領内から流出しました。これを防止するため、領内に三十三の霊場をつくられました。 (会津美里町ホームページより)
津軽三十三観音霊場  つくられたのは藩政時代初期のころ、創設者はよく分からないみたいです。
信達三十三観音霊場 少し調べて見ましたが創立年代は良く分かりませんでした。
2018年2月に霊場会が発足しました。
●関東地方●
江戸三十三観音霊場 浅草から巡り始め、目黒で打ち納めとなる『江戸三十三観音札所』は寛永十九年以後、元禄十一年以前に成立した。江戸の『観音札所』はその後もかなり多くが成立している。
『昭和新撰江戸札所』は、これらにゆかりの深い観音さまを中心として、神仏分離その他。時代の推移によって消長を余儀なくされた霊場を補うに、衆生縁ゆたかな観音霊場を以てしたとあります。
(「昭和新撰江戸三十三観音札所案内」:江戸札所会発行より)
鎌倉三十三観音霊場 江戸時代の中期から末期に観音順礼が盛んになり、鎌倉郡にも鎌倉三十三ヵ所が成立した。しかし明治維新で廃寺、移転した寺が多く、大正から昭和のはじめにあらたに鎌倉三十三ヶ所が設定された。
(「鎌倉三十三ヵ所観音霊場巡り」:平幡良雄著より)
那須三十三観音霊場

およそ三百年前の天保二年、下野・白河の観音百堂を巡拝し、寺堂ごとに歌を献じた巡拝記「下野・陸奥百観音巡礼記」(大金重貞記)がある。それは、東三十四、南三十三、西三十三観音の合わせて百寺堂(霊場)である。
後に東三十四霊場の内、主な寺堂、その他、南、西霊場から選び合わされ、那須三十三観音霊場が組織された。大正、昭和初期までは、これら百観音、三十三観音巡拝は盛んであったが、時の変遷とともに衰退してまった。
しばし時が過ぎ、以前のそれらを基とし、那須郡十市町村にわたる三十三ケ寺の結縁あって、現在の「那須三十三観音霊場」が再興されたとのことです。(公式ホームページより)

安房国札三十四観音霊場 貞水(1231年)のころ、時の高僧たちが相図って、安房国内に奉安する観世音菩薩にご詠歌を奉納し、厨子の帳を開いて巡り、拝んだことに始まるといわれています。(「安房国礼観音霊場巡り」:藤波重昭著より)
新上総国三十三観音霊場 平成八年、現在の十五番圓鏡寺のご住職が発願、各お寺さんを纏め再興されたようです。
十月二十日、木更津の平野山高蔵寺で結成総会を開き、十一月十五日に芝山の観音教寺で開創発会記念法要が開かれたとあります。(「新上総国三十三観音巡礼」:水野通雄著より)
東海三十三観音霊場 大正3年、赤坂仲之町紫雲会、当舎宝仁氏等の発願により創設された。寺院は、東京20ヶ寺、川崎8ヶ寺、横浜5ヶ寺、番外1ヶ寺。東海道沿いに所在する処より東海と名付けたものであるとのことのようです。
(「江戸・東京札所辞典」:塚田義雄著より)
武蔵野三十三観音霊場 昭和十五年、郷土史家あった柴田常恵先生が発願、番外も含めて三十四の寺々を選定して結成されました。
平成五年、霊場会が結成されたとあります。(「武蔵野三十三所観音巡礼」:武蔵野観音霊場会編より)
新上州三十三観音霊場 大間々町に生まれた、荻原好之助氏が発願。平成10年10月、三十三カ所設定完了、書籍六千部を発注とあります。
平成11年(1999年)に群馬県内の各市町村から三十三ヶ所の寺院が定められ発足した観音霊場です。
(「新上州・観音霊場三十三カ所」;新上州観音霊場会より)
旧小机領三十三観音霊場 享保年間に、この小机の当たりに熱心な観音信者の竜野愛勝という人がおり、かねて念願する三十三観音霊場の創設を現在の三十三番札所・法昌寺の宋運和尚に図った。
和尚は同寺の朝庵和尚と共に、現在の一番札所・泉谷寺の転誉上人を訪れこの三人によって霊場草創の案が立てられた。
転誉上人から幕府に霊場開設が願出され、許しを得て享保十七年(1732年)、開創を見るに至った。
(子歳観音霊場会 公式サイトより)
武相四十八観音霊場 開創は江戸時代中期。それぞれに信仰されていた寺院が連携して、その記念すべき第一回の御開扉を宝暦九年(1759年) に実施しました。
十二年に一度、卯歳に御開扉を行うので、卯歳観音と称しております。(納経帳表書きより)
下野三十三観音霊場 江戸末期の創設といわれる。
宝永五年(1708年)、新里(現・宇都宮市)の高橋善左衛門吉勝という人が、下野三十三番を巡拝し、その記念碑を新里の地に建立しました。
吉勝は足利のばん阿寺に寺名、地名、観世音の称名、御詠歌等を版木に上木して奉納しました。(納経帳表書きより)
多摩川三十四観音霊場 昭和8年の設立。
当初は三十三ヶ所であったが平成14年の御開帳を帰して、三十四ヶ所観音霊場となった。
(「多摩川三十四ヶ所 観音霊場札所案内」:慈眼会発行より)
行徳・浦安三十三観音霊場 江戸時代から明治年間まで、行徳・浦安に「行徳札所」と呼ばれる三十三ヶ所の観音霊場があった。
江戸時代の中、後期江戸住民をはじめ、佐倉や印西・成田・木下・千葉など下総各地からたくさんの巡礼が訪れてきたが、明治の後半になって急速に衰え、消滅してしまった。
「行徳郷土文化懇話会」が札所めぐりを復活すべく各寺院を回って、掛札を作り寺に納め、同会によって昭和59年(1984)に復活された。(市川市ホームページより)
東上州三十三観音霊場 宝永五年(1708年)、山田群西小倉村(現在の桐生市)の崇禅寺に一時住み着いた僧・暁観道心が創設したもの。
霊場は館林市、太田市、桐生市などの東毛地区に散在する。(東上州三十三観音札所めぐり:樋口正洋箸より)
忍三十四観音霊場  忍秩父三十四観音霊場とも言うみたいです。
元録ニ年(1689年)に龍花院(騎西町)の観照和尚が忍領西国三十三観音霊場と共に創設しました。(観音巡礼:山田計司箸より)
忍領三十三観音霊場   忍領西国三十三観音霊場とも言うみたいです。
元録ニ年(1689年)に龍花院(騎西町)の観照和尚が忍秩父三十三観音霊場と共に創設しました。(観音巡礼:山田計司箸より)
安房郡札三十三観音霊場  江戸時代のはじめ頃に忠音坊・頼勢上人(総持院・中興第八世)が『戦国に散った霊魂の菩提の追善と天下和順を祈念し、現世に生きる庶民を苦しみから救うため』開創したと伝えられています。
猿島坂東三十三観音霊場  坂東市生子・萬蔵院の第五十二代住職、雄弁上人の開設。年代は享保年間(1716〜1736年)とわれている。(猿島坂東札所めぐり:山崎正巳箸より)
相模新西国三十三観音霊場  蓮花院寺伝によれば、第八代将軍徳川吉宗公の治世、延享元年(1745年)乙丑年より巡礼、爾来丑年ごとに春彼岸より三十日間開帳奉修し、庶民に巡礼をすすめた。(佐藤菊治様hpより)
葛飾坂東観音霊場  正徳四年(1714年)、下総国葛飾郡久能村(現在の古河市久能)の宝性院の住職・秀伝和尚の開創。
現在の古河市、五霧町、八千代町、野木町にあった三十三ヶ寺の同意を得て第一回目の観音ご開帳を行った。
その後、第三十四番札所、番外七ヶ所を加え四十一ヶ所霊場となります。(公式ガイドブック:「葛飾坂東観音御開帳」より)
準西国稲毛三十三観音霊場  宝暦四年(1754年)に、武州橘樹郡稲毛領平(現:川崎市宮前区平)の山田平七翁が西国三十三観音霊場を巡拝して帰り、西国三十三体の観音さまを近郷に導きたまえと発願し、西国観音霊場になぞらえ、近郷の寺院三十三箇所の観音さまに、天下泰平・国土安全・五穀成就・万民快楽等の人々の幸せを祈念する霊場として生まれたのが始まり。(公式hpより)
三浦三十三観音霊場  建久三年(鎌倉時代初期)、三浦半島の一帯に起きた大飢饉に人々は苦しんでいました。その時、長井(現在の横須賀市長井)に住む源義経の家臣鈴木三郎重家が、人々の救済を発願し三浦半島の三十三ヶ所の霊場を参拝して巡りました。すると霊験あらたかに忽ち、浜は大漁、陸は豊作となり、人々は飢饉から救われたといいます。それ以来その霊場を三浦札所と定め、毎午年を本開帳、毎丑年を中開帳として開扉供養をするようになりました。(三浦三十三観音札所会:公式hpより)
津久井観音霊場  宝歴年間(約250年前)、津久井町根小屋寺沢の臨済宗建長寺派・雲居寺の大雲禅無和尚が津久井郡内一円にわたり宗旨、宗派を問わず観音様を祀る寺院に呼びかけて、雲居寺を大一番に群内を一巡して隣寺の長竹・来迎寺を打ち止めとする観音霊場を開設したことに始まる。(「津久井観音霊場札所ガイドブック」より)
関東三十三観音霊場  千葉県、東京都、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県にある観音菩薩を祀る寺院から構成される霊場である。平成元年(1989年)に開創された。
准秩父三十四観音霊場  眞福寺に残っている資料によると、1810年には既に始まっていたと推測される。(「集印帳」より)
横浜市港北区11、鶴見区4、都筑区5、川崎市中原区7、幸区3、川崎区4。
内二つの札所を兼務しているお寺さんが3ヶ寺あるため30ヶ寺、1堂で構成されています。
●中部・東海地方●
南知多三十三観音霊場 昭和初期、地元観音信仰者の要望により、西国三十三観音霊場の御分身、各霊場の霊土を奉安して開創されたとあります。(納経帳表書きより)
尾張三十三観音霊場 尾張にも西国霊場のうつしがあったが、明治維新の廃仏殻釈の影響により衰退し、太平洋戦争では巡礼の道が断ち切られ、寺々は焼失などして、戦後は復興しなかった。
昭和33年、観音信者のよびかけで、三十三観音霊場結成の気運がたかまり、八事山興正寺で開創大法会が行われたとあります。(「尾張観音巡礼」:平幡良雄著より) 
遠州三十三観音霊場 「遠州の地に仏国土を」の理想の元に、昭和59年(1984年)5月に発願開創され今に至っています。
(遠州三十三観音霊場会ホームページより)
遠江三十三観音霊場 その成立時期はさだかではありませんが、慶安(1648年)以前、あるいは文録(1592年)以前とも言われています。
この頃、那智の青岸渡寺を第一番とした機内の「西国三十三観音霊場」が盛んに行われていましたが、地方からの西国巡礼は大変なことでした。そこで、まず秩父、坂東の三十三霊場が成立し、これに続いて「遠江三十三観音霊場」が成立したと言われています。(「光と風と観音様と−遠江三十三観音霊場ガイド−」:遠江三十三観音霊場保存会より) 
三河三十三観音霊場 愛知県東部(旧三河国)の主に三河湾沿い一帯に広がる観世音菩薩巡礼地。
現代に生きる私共、みなこの尊い観音様の御慈悲に照らされ、ご利益を蒙ることのできますよう、当地方に名ある観音霊場を選び本西国になぞらへ、昭和三十二年(1957)三河三十三所の札所を設けることといたしました。(納経帖より)
江戸時代開創の「三河西国三十三観音霊場」とは異なる。 
駿河一国観音霊場 成立したのは江戸初期と思われるが、このもとは「安部七観音」の霊場巡りが拡大し駿河国一円の古い寺と共に発生したようである。
(「駿河三十三所観音巡り」:黒澤脩薯より)
伊豆横道三十三観音霊場 承安三年(1173年)、高雄山・神護寺の僧・文覚は強訴の罪で伊豆茶屋谷に流された。
文覚は頼朝と出会い、松崎・宮内の相生堂で源氏再興をうながし、その大願成就を祈願して伊豆半島南端の寺々をめぐることを勧める。頼朝は文覚上人に伴われ松崎の滝見観音堂を打ちはじめに、伊浜の普照寺で打ち治める、松崎十一ヵ所、河津六ヶ所、下田八ヵ所、南伊豆八ヵ所の三十三ヶ所を巡拝する。
それ以来、伊豆の観音霊地を歩く信仰が盛んになったと伝えられる。(「伊豆横道巡礼」:平幡良雄薯より)
美濃西国三十三観音霊場 成立したのは江戸時代の中頃といわれます。その後、一時衰退していましたが、戦後まもなく、これを復興しようという機運が盛り上がり、一部の札所寺院とこれをささえる信徒の熱意があいまって復興されました。(「美濃西国三十三所観音巡礼」:美濃西国観音霊場会より) 
 穂の国観音霊場  平成十年(1998年)の開創。
 飛騨三十三観音霊場  2005年版の霊場会発行ガイドブックによると霊場会が発足して15年目とありましたので、1990年の開創と言うことでしょうか。
(飛騨三十三観音霊場めぐり:飛騨三十三観音霊場会発行より)
 知多西国三十三観音霊場  明和七年(1770年)、岩谷寺仲之坊の智善上人が開創。
(愛知 御朱印を求めて歩く札所めぐり:東海まち歩き発見隊より)
 伊勢西国三十三観音霊場  伊勢国安濃津の僧、道源が開創したと伝わるが年代は不詳である。ただし、平安時代前期には小野篁(802年 - 853年)が『伊勢三十三所巡拝記』を記していることから、少なくとも千年以上の歴史を有する。
また、明暦元年(1655年)の『勢陽雑記』にも記述され、寛保元年(1741年)には龍集の『伊勢順礼案内記』によって詳細に紹介されている。これらのことから隆盛がうかがえる一方、長い歴史の中で巡礼の衰退、札所の統廃合も繰り返されている。現代でも昭和44年(1969年)、平成18年(2006年)に再編成が行われて現在に至っている。(ウィキペディア掲載情報より)
●中部・北陸地方●
北陸三十三観音霊場 開創は1987年と比較的新しい。
若狭・越前・加賀・能登・越中各地の由緒ある霊場の中から県別十一ヵ寺を選出して発足。
(北陸三十三観音ヵ所観音霊場案内:北陸三十三観音ヵ所観音霊場会発行より)
 ●中部・上信越地方●
信濃三十三観音霊場 成立は江戸時代の初め、寛文年間(1661〜1673年)と思われる。
中世に成立したものを除くと、寛文以前に国単位の札所巡りが設置されているのは、江戸、三河、会津の三ヶ所にすぎないことから、全国的にみても早い事例である。
(観音さまだいすき −信濃三十三番札所みちを歩く−:信濃三十三番札所連合会発行より)
越後三十三観音霊場 鎌倉幕府五代執権・北条時頼公が慶元元年(1256年)に越後回国のおりに定めたとされます。(越後三十三観音霊場会公式サイトより) 
●近畿地方●
洛陽三十三観音霊場 最初に定められたのは平安時代末。
江戸時代には京都庶民の間で大流行したようですがその後衰退。
平成十五年に再興されました。(京都ことこと 観音めぐり:京都新聞出版センター発行より)
洛西三十三観音霊場 江戸時代に信仰を集めた西の岡三十三所を前身とする。
いつ開創されたのかは、室町時代とも江戸時代とも言われているが史料が残されていないためはっきりしない。(ウィキペディア掲載情報より)
播磨西国三十三観音霊場 江戸時代初期に慶雲寺の南室和尚(1591年 - 1671年 大悲弘済禅師)により選定されたとされる。南室の死後に入寂地である天徳山常光寺を客番として加えて34箇所となった。
播磨西国三十三箇所には、モデルとなった西国三十三所観音霊場のうち圓教寺、清水寺、一乗寺を含む。 (ウィキペディア掲載情報より)
円覚寺百観音霊場 派内寺院の交流や檀信徒の布教伝導を目的とした、本派独自の観音霊場を発願。
本派二百ヶ寺の中で色々な観音さまをおまつりする寺院が、ここに本山百観音を母体とした平成の観音霊場として開創しました。
(円覚寺観音霊場 御納経帳:大本山円覚寺百観音霊場会発行より)

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