観音様ってなんでしょう? 簡単にですが調べてみました。 |
観音様は観世音菩薩ともいいます。 「観」はみる、ただ見るのではなく、よく観るのです。 「世」は世間の世であり、世の中の意味です。 「音」は衆生の悩みや苦しみの声とか救いの音声であり、世間の私たち衆生の苦しみや 救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる菩薩様ということです。 観音様は無相であり、無我であるから宇宙のあらゆるところに縦横無尽、 円融無碍(えんゆうむげ)に現れることができます。 心に障碍、執着、わだかまりがないから自由自在。そこで観自在菩薩ともいわれるわけです。 観音様には、聖観音、千手観音、十一面観音、如意輪観音様などがいらっしゃいますが、容姿がたいへん美しく、その端麗なお姿を見ているだけで心の中まで洗われるような気がしてまいります。 あらゆる人々を救ってくださるその慈愛に満ちたお姿から女性の菩薩ではないかと 思っている人もいるようですが、実は観音様は女性でも男性でもないのです。 といって中性という表現も当てはまらないように思います。 必要に応じて刹那刹那(せつなせつな)にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」とでも申しましょうか。 その象徴があの気品と慈愛に満ちたお姿になっているのでしょう。 観音様はもとは「正法明如来」という如来様であったと言われています。 それが、高い位の如来であると低い段階にいるわれわれ衆生を救うことができないというので、 わざわざ一段位の下がった菩薩となって一切衆生を救おうとされているのです。 |
菩薩 → 衆生(人間)を救済し、悟りを得る為に修行するもの。如来に次ぐ位にある。観音・弥勒・文殊・地蔵など。 観音 → 観世音菩薩の略。菩薩の中の一種類。阿弥陀如来の化身とされる。 如来 → 悟りを得た(真理に到達した)もので、「仏」のこと。仏教では最高の位にある。釈迦・阿弥陀・薬師・大日など。 釈迦 → 仏教の開祖。仏像においては如来の一種類であるが、本来 如来(というか仏像は)は釈迦如来のみだった。 |
観音の、危難に際して救いの手を差し伸べてくれるという現世利益的信仰は、すでにインドに始まっており、「法華経」中の観世音菩薩普門品に同様の思想が見られるそうです。 日本では740年の藤原広嗣の乱の時、国ごとに七尺観音像をつくり反乱鎮圧を祈ったとされ、九世紀はじめの日本霊異記には観音を念じて災いを逃れた話が多数載っています。10世紀を境として、来世の個人救済を目的とした浄土教が発達していき、その過程で観音信仰も六道抜苦の来世信仰、六観音信仰へと発展しました。 六観音はもともと天台宗の「摩訶止観」中の大悲、大慈、師子無畏、大光普照、天人丈夫、大梵深遠の六体の観音の事です。六体の観音像によって、輪廻無常の六道の苦を逃れ浄土に往生を願うという信仰が貴族社会で流行しはじめました。 十一世紀に入り、「摩訶止観」の六観音は密教の観音の変化であるとする説が、真言宗の僧らによって説かれ、以後六観音は密教の六観音を指すようになりました。 六観音真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道-聖観音、餓鬼道-千手観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっています。 七観音観音が衆生教化のために変じ給える七身。真言系の六観音に不空羂索観音を加える。 十五尊観音三十三観音(次項参照)のうち、白衣、葉衣、水月、楊柳、阿摩提、多羅、青頸、琉璃、龍頭、持経、円光、遊戯、蓮臥、瀧見、施薬の15の変化身をいう。 三十三観音以下に列挙した三十三観音の名称は、天明3年(1783年)に刊行された『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書物に所載のものである。この中には白衣(びゃくえ)観音、多羅尊観音のようにインド起源のものもあるが、中国や日本で独自に発達したものもあり、その起源はさまざまである。白衣観音、楊柳観音のように、禅宗系の仏画や水墨画の好画題としてしばしば描かれるものもあるが、大部分の観音は単独での造像はまれである。 三十三観音の名称
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観音様を表す梵字
梵字とは仏教、特に空海、最澄が伝来させた密教と密接な結び付きがあって、紀元前に古代インド文字、サンスクリット語として発展しました。 6世紀半ば頃、中国を経て日本に伝わってきたと言われています。 |