大給松平家第六代家乗公の開基。
天正十八年(1590年)、雄山伝英和尚により創建・開山。
当山の開基六代家乗、七代家寿の法号を以て寺号山号として約400年の歴史をもつ大給松平公の菩提所である。
代々重要な幕閣にあり、特に十四代乗全公は老中として、大老井伊直弼公時代に勤められ、幕末動乱に心の乱れを仏に求め、天下泰平の祈願をこめて数々の仏像を奉納された。
乗全公逝去され、源恭院殿と号し、奥方の光顔院殿墓碑を東京の墓地から船で運ばれ、ご夫妻ともに当山に建立埋葬されている。
車は境内に駐車ですが入口の山門がちょっと狭いです。 |
承久三年(1221年)、足利義氏・西條城々内に神宮寺金剛院等の六坊を建て、天台宗の僧侶を別当に補して仏事を掌らしめる。
足利氏はこの地に来て姓を吉良氏と改めた。その後、天台の僧侶親鸞の教を奉じ寺を離れる者続出したため寺は荒廃する。
隅々支那人と伝えられる禅僧「鳴海瑞泉寺二世」却外乗空禅師、当地に来られ堂宇廃頽の現状を見て悲しみ、これを再興させて大いに禅宗の教義を広めた。
足利義氏六世の孫、西條城主・吉良満貞は、深く却外禅師の道風に帰依し、「神宮」、「金剛」の二寺を合して一寺となし吉良山満全寺と名づけた。
吉良山は家名、満全寺の「満」は満貞の満を賜り寺号とした。永禄三年(1560年)桶狭間にて今川氏は敗戦し、その余波により西條城吉良氏は没落した。
その後、徳川家康当寺に止宿、家康の「康」の字を賜り西尾山康全寺と改称し今日に至る。
康全寺縁起書によれば応永年間(1394~1428年)に現在地に移すとあり。他説西尾史の一節に天正十三年(1585年)に西尾城改築の際にこの地に移すとあり。いずれが正しきか未だ判せず。 |
この尊像は明正天皇(第109代女帝)が御母東福門院崩御の際、御中陰37日の御忌仏として御調進になり、元禄9年(1696)比叡山に移りました。
観世音に信仰厚かりし田中雪翁は尊像を譲り受けられ西尾へ転住の際、奉載して自宅に安置されましたが、本尊の威厳霊験などに俗家にまつることをおそれ多いと悟り、中町の緑心寺へ、次で西の町の輪光庵へと預けられる。
その後、当地の高橋家と相はかり、当所に小堂を建立して、延享三年(1740年)本尊を迎え落慶の供養をされたるに始まる。
こえて明和二年(1765年)田代氏の世話で越前から妙令の法厳尼を迎え、律尼よく苦難の終業を積んで第一世の庵主となられた。
写真は観音堂です、クリックすると観音様が見れます。 |