三河三十三観音霊場  第二十八番~第三十三番・番外
 
第二十八番 第二十九番
片岡山 華藏寺 瑞境山 実相安 國禅寺
如意輪観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
吉良氏は鎌倉時代から西尾の実相寺が菩提寺であった。

慶長五年(1600年)、吉良上野介義央公の曾祖父・義定公が吉良家を再興した際、亡き父の追善のために新たに高家吉良家の菩提寺として創建された。

当初は金星山・華蔵寺と称し真言宗であったようです。
美濃国加納の成徳寺から臨済宗妙心寺派の高僧・月船禅師を請して開山となし片岡山・華蔵寺と改めた。

以前は花蔵寺村(現西尾市)にあったと伝えられている。
実相安國禅寺とも言われる実相寺は、吉良氏の菩提寺としてその経済力を背景に、吉良荘の領主・九条家の菩提寺である京都の東福寺から時の高僧である「聖一国師」を迎え、文永八年(1271年)、吉良満氏によって創建された。

当時、寺領七千石を賜わり、七堂伽藍の完備した塔頭寺院四十余の大寺院であり、中国径山寺の構図に模して建立されたとも伝えられている。

その後、足利幕府の衰亡と共に荒廃し、天文十年(1541年)太原禅師が当山に入寺中興されるに至り、臨済宗妙心寺派となる。

永禄四年(1560年)織田信長勢五千騎の兵火に諸堂全てを消失、天正年間(1573~1592年)に遠州宇布見より古堂を移し仏殿となし、釈迦三尊像を安置した。
さらに、慶長年間(1596~1615年)に本堂、元禄年間(1688~1704年)に庫裡が再建され、併せて慶長十八年(1613年)には徳川幕府より境内地2万4000坪と朱印70石を附与されている。
平成23年2月4日 平成23年2月4日
第三十番  第三十一番 第三十二番
久昌山 盛巌寺 西尾山 康全寺 佛壽山 法厳尼寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面千手千眼観世音菩薩
大給松平家第六代家乗公の開基。
天正十八年(1590年)、雄山伝英和尚により創建・開山。

当山の開基六代家乗、七代家寿の法号を以て寺号山号として約400年の歴史をもつ大給松平公の菩提所である。

代々重要な幕閣にあり、特に十四代乗全公は老中として、大老井伊直弼公時代に勤められ、幕末動乱に心の乱れを仏に求め、天下泰平の祈願をこめて数々の仏像を奉納された。

乗全公逝去され、源恭院殿と号し、奥方の光顔院殿墓碑を東京の墓地から船で運ばれ、ご夫妻ともに当山に建立埋葬されている。

車は境内に駐車ですが入口の山門がちょっと狭いです。
承久三年(1221年)、足利義氏・西條城々内に神宮寺金剛院等の六坊を建て、天台宗の僧侶を別当に補して仏事を掌らしめる。
足利氏はこの地に来て姓を吉良氏と改めた。その後、天台の僧侶親鸞の教を奉じ寺を離れる者続出したため寺は荒廃する。
 隅々支那人と伝えられる禅僧「鳴海瑞泉寺二世」却外乗空禅師、当地に来られ堂宇廃頽の現状を見て悲しみ、これを再興させて大いに禅宗の教義を広めた。

 足利義氏六世の孫、西條城主・吉良満貞は、深く却外禅師の道風に帰依し、「神宮」、「金剛」の二寺を合して一寺となし吉良山満全寺と名づけた。
吉良山は家名、満全寺の「満」は満貞の満を賜り寺号とした。永禄三年(1560年)桶狭間にて今川氏は敗戦し、その余波により西條城吉良氏は没落した。

 その後、徳川家康当寺に止宿、家康の「康」の字を賜り西尾山康全寺と改称し今日に至る。
 康全寺縁起書によれば応永年間(1394~1428年)に現在地に移すとあり。他説西尾史の一節に天正十三年(1585年)に西尾城改築の際にこの地に移すとあり。いずれが正しきか未だ判せず。
この尊像は明正天皇(第109代女帝)が御母東福門院崩御の際、御中陰37日の御忌仏として御調進になり、元禄9年(1696)比叡山に移りました。

 観世音に信仰厚かりし田中雪翁は尊像を譲り受けられ西尾へ転住の際、奉載して自宅に安置されましたが、本尊の威厳霊験などに俗家にまつることをおそれ多いと悟り、中町の緑心寺へ、次で西の町の輪光庵へと預けられる。

 その後、当地の高橋家と相はかり、当所に小堂を建立して、延享三年(1740年)本尊を迎え落慶の供養をされたるに始まる。

 こえて明和二年(1765年)田代氏の世話で越前から妙令の法厳尼を迎え、律尼よく苦難の終業を積んで第一世の庵主となられた。

写真は観音堂です、クリックすると観音様が見れます。
平成23年2月4日 平成23年2月4日 平成23年2月4日
第三十三番
萬燈山 長圓寺
聖観世音菩薩
尊十一面観世音菩薩は菅原道真公一刀三礼彫刻の尊像で、開基板倉伊賀守勝重公の遠祖源義顕公の尊崇されたところ、一夜大光明を放って当山に現れ給うた奇瑞により本尊として当山が創草された。

後、慶長八年(1603年)、勝重公が仙麟長膳禅師を請して開山とし、板倉一門(大名四家旗本二家)の菩提所と定めました。

 寛永七年(1630年)、寺を萬燈山麓の貝吹村(現西尾市貝吹町、現在地)に移転し、七堂伽藍を完備させました。

この頃、曹洞復古の名僧といわれた月宗胡舟禅師が住寺となって、各地から多くの修行僧がここに集まり、東海の法窟と称せられました。
平成23年2月4日
番外 番外
荒井山 九品院 久後山 無量寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
開基は念仏行者徳本上人の十大弟子の一人、徳住上人で、文政十一年(1828年)の創建である。

その後、中興四世求道上人、十世恢誉上人を経て、現在十二代本誉上人に至っている。

 本尊の阿弥陀如来は行基菩薩の作である。開山以来、修行寺として各地から多くの修行僧が集まり、現に十数名が如法に励んでいる。

毎日朝五時に勤行が施行され、一日五回お勤めがあり、その間、鉦を用いて常念仏が修せられている。
無量寺は、久後崎観音とも呼ばれ元和年間(1615~1624)に、岡崎城主本多康紀の建立と伝えられている。
行基菩薩が、当国大門神宮寺におこしのおり、御母の菩提のために1本の杉を切り観音七体を作った。これが三河七観音の一像といわれる。
 後、文治元年(1185年)、源の義経下向のおり、浄瑠璃姫追善のため高宮村瑠璃山明大寺を建立し、馬頭観世音菩薩を安置した。

 後、兵火により諸堂は焼失したが、幸いにも本尊観世音菩薩のみは焼失をまぬがれた。
歳月を経て当国に洪水の時、本尊観世音菩薩は騎馬に乗り大川の中から浮き出て、岡崎城内の岸にたどり着かれたという言い伝えがある。

 家康在城の時、守護の本尊として敬まわれた馬頭観音である。
平成23年2月3日 平成23年2月3日
番外 番外
大雲山 極樂寺 融通山 観音寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩
家康公御乳母の局様を極楽寺の開基とし、お局様の局を頂いて局寺とも呼びます。

当寺はもとは岡崎城中にあり永禄九年(1566年)、徳川家康城内の鎮守として、白山宮造立の時、慶安周賀和尚その別当職となる。

天正三年(1575年)、周賀和尚老衰に及び城外の住居願いの趣を家康公の御乳母御局より駿府御在城の家康公へ達し在れば、小猿塚の辺へ移るべきようにと命が下り、現在の地に造建し極楽寺とす。
観音寺初代・大竹常三郎は日露戦役に出征。

守り本尊として家代々伝う身丈一寸の小豆観音を肌身に着け度々の激戦に九死に一生を得て、無事生還致しました。

 その後、度々の不思議なご加護があり、このような尊い御仏を私仏せず、あまねく広めたいと思い、昭和12年(1937年)、東京都在住の青山謹衛氏が1尺4寸の聖観音像を刻み、諸人の信仰を集めていた所、はからずもその高徳なること大和信貴山大僧正・野沢密全猊下の知る所となり文部省より宗教法人として正式に認可を得ました。

昭和31年(1956)信貴山末寺大竹観音融通教会として発足。
平成23年2月3日 平成23年2月4日
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