美濃西国三十三観音霊場   第二十八番~第三十三番
 
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臨済山  龍福寺 仁慈山  小山寺 松涛山  善福寺
聖観世音菩薩 馬頭観世音菩薩 十一面千手観世音菩薩
弘治三年(1557年)、佐藤忠能の開基。

加治田の里の菩提寺を創建、天獣玄晃禅師を招いて開山した。

総門より石段を上がって中門を抜けると正面が本堂です。
平安の末期、旭将軍と異名された木曾義仲が、この地で病死した生母の若名御前の菩提を弔うため飛騨川を渡ろうとしたとき龍神が現れ、馬頭観音の尊像を捧げ来り祠ることを勧め、波を鎮めてくれたのです。

義仲は大いに喜び、その観音像を奇岩の小島に奉安し供養したのがはじまりと伝えられています。

川の真ん中の島に観能堂があります。
天歴九年(955年) 天台宗の修行僧 浄観僧都が、十一面千手観音をこの地に安置 して、「専浄寺」と号したのが創まりとあります。

お寺さんの場所は直ぐに分かりましたが、街中のお寺さんで本堂がビルみたいになっているので一瞬「ここ?」って感じになります。
平成24年8月12日 平成24年8月12日 平成24年8月13日
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金剛山  徳雲寺 玉樹山  立蔵寺 吉田山  新長谷寺
子安観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
欣明天皇の時代に武蔵の海岸に放置されていたのを、当時の開山印牛禅師が夢のお告げで、この観音と出合った。

そして、印牛禅師に法嗣金龍和尚は尊蔵を金華山麓の黙山庵に安置された。

しかし、天明3年(1783年)に再び、御霊示によって、安住の地を現在の市橋に、堂を再建して安置された。
16世紀後半、旧倉知村にあった龍蔵庵が前身。

宝永2年(1705年)庵を現在地に移して、龍泰寺23世古谷如神和尚を開山に勧請し、宝樹山 龍蔵寺と改称。

嘉永3年(1850年)龍泰寺36世弘道辨玉大和尚を法地開山として勧請して、寺号を 玉樹山 立蔵寺 と改め現在に至るとあります。
平安時代は吉田寺という名前であったそうです。

鎌倉時代に弘法大師法孫護忍上人が感得した十一面観世音菩薩をまつる為、吉田寺境内に観音堂を興しました。この尊像が、現在のご本尊です。

時の帝後堀河天皇の眼病平癒に効験を発揮し、勅願寺となり、新長谷寺の寺号を帝より賜りました。

境内は撮影禁止だそうで写真はありません。
平成24年8月13日 平成24年8月13日 平成24年8月13日
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