最上三十三観音霊場   第二十八番~第三十三番・番外
 
第二十八番
塩沢山 曹源院
(塩の沢観音)
千手観世音菩薩
縁記によると、四位少将・師興朝臣がお堂を建立したのが始まりと言う。

現存の観音堂は宝暦七年(1757年)、涼智和尚によって再建されたとのことです。

本尊の千手観世音菩薩は慈覚大師の作と言われ、二十三番札所の観世音と同木と伝えられる。

旧観音堂は1kmほど離れた山の中にあるそうです。
平成22年7月25日
第二十九番
石水山 西光寺
(大石田観音)
聖観世音菩薩
山門を入ると正面が観音堂で右手に本堂があります。

観音堂の建立は寛文十年(1670年)、その後破損し延宝三年(1675年)に再建。

明治三年の火災で焼失し、その後、現在地に移したとあります。

本尊の聖観世音菩薩立像は町指定文化財だそうです。
平成22年7月25日
第三十番
鷹尾山 般若院
(丹生村観音)
聖観世音菩薩
縁記によろと、老いた旅僧が丹生にたどりついたとき、重病に倒れた。

臨終の際、「諸国を行脚して、当地で生涯を閉じるのも何かの仏縁と思う。今、私が抱いている浅草観音から授けられた聖観音を、しかるべきところに奉安してほしい」と遺言して永眠した。

村人は老僧が亡くなったところにお堂を建立して、聖観世音菩薩像を安置したのが始まりと言う。

車の場合、鳥居の側のご朱印所の所まで行けないことはないですが、せまいので行かない方が良いです。
案内板の先を行って左折した所に駐車場があります。
平成22年7月25日
 第三十一番 第三十二番
浪高山 光清寺
(富沢観音)
慈雲山 明学院
(太郎田観音)
馬頭観世音菩薩 十一面観世音菩薩
三日目に入りました。

残りは本寺を含めて4観音となりました。

本尊は慈覚大師作の馬頭観世音菩薩。

開基は貞観五年(863年)、巡錫中、補陀洛山を思わせる美しい山えお見つけた慈覚大師は、この地方で名馬を産出することから、馬頭観世音菩薩を安置し、馬の守護仏とするとともに、村人に祈願と馬を増やすように勧めた。

堂内には格天井の絵に呼応するように、四面にびっしりと絵馬が掲げられている。

この後は番外・世照観音さんに向かいます。
「太郎田」と言う地名は、古い呼称で小国郷草分けの伝説に出てくるもので、伊豆からこの地に移住してきて開墾事業に従事した伊豆三郎と、安芸の国の田沢内匠之介が住んだ村だと言い、観音堂は三郎の信心仏を奉ったのが開基であると言う。

寺宝には開墾時に出土した「慈仏」があるそうです。

ご朱印は観音堂に向かって右手です。
車一台分の駐車スペースがあります。
平成22年7月26日 平成22年7月26日
第三十三番
庭月山 月蔵院
(庭月観音)
聖観世音菩薩
打ち止めは鮭川村の庭月観音、入口には「おかげさま門」が建つ。

この門を通り抜けるときは「おかげさまで」と声を掛けて通り抜けるのだそうです。

本堂の前を通り、山門を抜けて石段を登ると観音堂です。

縁記によると、本尊は慈覚大師の三礼行法のご尊体。

戸沢藩主は年に一度参拝し、その時だけの接待のための廊下跡が今も本堂に残っています。

こちらは「出羽百観音」の結願霊場でもあるようです。
県外からの巡礼者には「結願うちどめの証」が頂けます。
平成22年7月26日
番外
臥龍山 天徳寺
(世照観音)
子安観世音菩薩
正面に本堂が有り、左手に位牌堂が有ります。

本尊の子安観世音菩薩は位牌堂に入って左手の奥におられます。

寺伝によると、元文年間(1736~1740年)にはすでに世照観音として知られ、月蔵院に安置されていた。

だが天保(1830~1843年)の頃、廃寺となり、本尊は天徳寺に移されたとあります。
平成22年7月26日
 第百番
高野山観音
一番さんからそう遠くない、天童市の田麦野に第百番札所と言うのがあります。

最上三十三観音は3回お詣りすると九十九になり、区切りよく百番にお詣りしてから巡拝打ちおさめするために百番観音が生まれたといわれています。

本堂は慶応二年に再建し、昭和四十九年の修理を経て現在に至っているとのことです。

車は参道入り口付近の路上に駐車スペースがあります。
参道からは歩いて直ぐです。

観音堂は閉まっていて連絡先などの掲示が見当たらないのでご朱印が頂けるのかどうかが分かりませんでした。
平成22年7月25日
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