下野三十三観音霊場  第二十八番~第三十三番・番外
 
第二十八番 第二十九番
金剛山 鑁阿寺 出流山 満願寺
聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
始まりは建久七年(1196年)といい、足利義兼が邸内に持仏堂を建て、大日如来像を安置したことにことによる。

のち三代・義氏が堂塔伽藍を建立し、歴代足利氏の氏寺となった。

本堂には本尊の薬師如来像、聖観世音菩薩、薬師如来などが祀られている。

聖観音は明治初年まであった十二ケ院の一つ、寛宥院の本尊であったが、廃寺となり、以来大日堂内に安置されている。
天平新護元年(765年)、勝道上人によって開かれたと伝える。

弘仁十一年(820年)、弘法大師が来山、十一面千手観音像を刻んで安置したという。

子宝に恵まれなかった勝道上人の母は、この地の鍾乳洞(奥の院)で上人を身ごもったとされ、以来、子授け・安産の信仰が今もつづく。

観音堂は足利義満が寄進したというが、のち焼失し明和元年(1764年)再建された。

坂東三十三観音札所の第十七番札所でもある。
平成23年6月18日 平成23年6月18日
第三十番  第三十一番
深岩山 満照寺
(深岩観音)
紫雲山 千手院
聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
建立年代は不詳、平安時代、弘法大師が聖観世音を刻んで安置したのが始まりと伝わる。

安政年間(1854~60年)に廃寺となり、観音堂だけが姿をとどめたという。

山の中腹、巨岩の洞窟内に観音堂があります。

堂宇の左横には室町時代の作と伝わる石碑が建ち、岩肌には磨崖仏が彫り込まれている。

地震でしょうか、石段が結構やられています。
千手院は朝日山宝蔵院の奥の院として建立された。

天文四年(1535年)、鹿沼城主・壬生上総介義雄が鹿沼城守護のため、板荷観音原の千手堂に安置されていた千手観世音座像をここに移した。

その観音像は像高およそ51㎝の一本彫り、工風から鎌倉時代の作と推測される。

開帳は三十三年に一度。

無住寺の千手院は戦後管理していた宝蔵寺が土地建物を市に提供して、市の千手山公園になった。
平成23年6月18日 平成23年6月18日
第三十二番 第三十三番
天開山 大谷寺
(大谷平和観音)
普門山 蓮華院
(岩本観音)
千手観世音菩薩 馬頭観世音菩薩
寺伝によれば、弘仁年間(810~24年)、弘法大師が岩山に一夜にて千手観世音像を刻み、これを本尊としたのが開創。

のち元和年間(1615~24年)、伝海僧正が宇都宮城主・奥平氏や徳川家康の長女・亀姫の援助を受けて再建したと伝わる。

本尊は日本最古の磨崖仏といわれ、像高およそ3.9m、昭和20年代までは秘仏であった。

坂東三十三観音霊場の第十九番札所でもあります。
明治初年に廃寺となったため、その歴史などは一切不明。

ふもとの鳥居横に地元の集会所があり、ここから石段が上部へと延びている。

集会所には以前の本堂に祀られていた木彫の聖観音と宗祖の座像、釈迦誕生仏が保管されている。

およそ60段の石段を登りつめると、小さな平坦地があり、ここが奥の院。

正面の岩に洞窟があり、洞内に馬頭観音と地蔵菩薩が安置されている。
平成23年6月18日 平成23年6月19日
番外 客番 
大雲山 龍蟠寺 多気山 持宝院
(多気不動尊)
 
聖観世音菩薩 馬頭・如意輪観世音菩薩
この寺は近年まで、第三十二番札所として、納経所になっていた。

本来は大谷寺なのだが、下野観音講が再興された際に大谷寺が納経を辞退したため、先代住職が引き受けたのである。

寺伝にとると天文二十二年(1553年)、鹿沼市玉田町の端光寺七世・蘭渓という僧によって開かれた。

端光寺はこの地方の曹洞宗布教の拠点となった名刹であり、百十数ヵ所の末寺を有していた。

龍蟠寺はそのひとつ。
縁記によると、弘仁十三年(822年)、日光山を開いた勝道上人の弟子・尊鎮法師により、馬頭観世音を本尊として創建された。

のち建武二年(1335年)、九代宇都宮城主・公綱によって、氏家の勝山城内から現在の本尊である不動明王が遷座されたと残されている。

不動明王は真言密教の主尊である大日如来の使者とされる。

そういう意味では観音講の札所ではないが、創建時に馬頭観世音が安置されたこと、加えてその寺格からも別格札所として位置付けられている。
平成23年6月18日 平成23年6月19日
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