<薬師如来霊場巡礼>
武南十二薬師如来霊場
 
 第七番   醫王山 金剛寺 曹洞宗
   令和04年4月5日(火)  
縁起:本尊薬師瑠璃光如来は坐像にて行基の御作なり と。
その歳此の地に疫病が流行し、長谷川道全氏の帰依 により万民の安寧を祈願し、(雄に奉安されしと伝えられ る。
小机の中央、古城蹟の下にありし」草庵なるも、天 明六年(一七八六)雲松院十九世大継良智大和尚に依り 曹洞宗となり現今に至っておる。
堂宇は近世再度権災に相遇せしも、昭和六十年本堂荘厳 再建なる。
横浜市港北区小机町952 045-471-6294
 第八番   本願山 長福寺 真言宗大覚寺派
   令和04年4月5日(火)
縁起:当山は、本願山長福寺と号し、旧嵯峨御所大覚一 寺門跡真言宗大覚寺派に属しています。
ご本尊は薬師如来で今を去る四百年前より済世利人の信仰を集めて今日に及んでいます。
昭和六十一年に、本尊薬師如来の胎内から、「金子出雲守同大炊助、文禄四年十月十四日現当二世」と記された胎内札と願文が発見されました。
金子出雲一族等、篠原の地に居をーにする人たちの、信仰と安心を願う気持ちが伝わってくると同時に、一般民衆によって支えられ、受け継がれてきた歴史と信仰を見ることができます。
横浜市港北区篠原町2754 045-401-5279
 
 第九番   医光山 薬王寺 高野山真言宗
   令和04年4月5日(火)
縁起:当寺は、文安年間園海大僧都の開基するところ、後に天和二年知積院泊如僧正の中興にかかり、法灯連綿として近年に至る。
大正十二年関東大震災に本堂・庫裡その他ほとんど倒壊し、現在の本堂は廿三世顕慎和尚が昭和九年の弘法大師一千百年御遠忌記念に、客殿書院・庫裡は廿五世良弘が昭和五十九年の弘法大師一千百五十年御遠忌記念事業に再建したものである。
本尊は薬師如来坐像で」尚さ二尺、脇立は十二神将である。
弘法大師が開いた真一一一昌ホに所属し、和歌山県高野山にある金剛峯寺を総本山とする。
また新四国東国八十八ケ所第十七番札所にもなっている。
横浜市神奈川区七島町6 045-434-3241
 第十番   海運山 満願院 能満寺 高野山真言宗
   令和04年4月5日(火)
縁起:当寺は」局野山金剛峯寺の直末にして遠く鎌倉時代の中期正安元年(」二九九年)の開創であり、重運法印の開山である。
本尊は虚空蔵菩薩で海中より出現されたと伝えられている。
徳川時代では関東に於ける神社の別当寺として本牧の多聞院、藤沢の荘厳寺と並び関東三大末寺と称せられた。
薬師堂は明治元年の神奈川の大火により全焼し、現在薬師如来は昭和五十八年に再建された本堂中に不動明王と共に安置されている。
横浜市神奈川区東神奈川2-32-1 045-441-8974
 
 第十一番   平尾山 東光寺 真言宗智山派
   令和04年4月5日(火)
縁起:当寺は平尾山本願院東光寺と称し、ロ碑によると小田原北条氏の家臣、平尾城主、平尾内繕の建立といわれています。
本尊薬師如来は平尾内繕の守り本尊、また一説には太田道観の守り本尊ともいわれています。
初め当山は、ニッ谷平尾に開開されましたが、後現在地に移転したもので、境内地には不動堂があったと伝えられています。
しかし、明治元年一月神奈川宿中桑名屋の大火により堂宇悉く焼失。
明治三十四年に再興をはたしました。
しかしながら、以後関東大震災、第一一次世界大戦、敗戦による米軍による寺地の接収と、たび重なる災
難に遭遇しましたが、昭和三十四年九月に再建し現在に至っています。
当山は真言宗智山派に属し、新四国東国八十八ケ所第十九番の札所でもあります。
 
 第十二番   瑠璃光山 三宝寺 浄土宗
   令和04年4月5日(火)
縁起:弘仁二年諸国に悪疫が流行した時、勅命によって弘法大師が六六躯の薬師を刻み、日本六六ケ国の寺々に安置祈願したところ、忽ち疫病は根絶したという。
その時、武蔵の国の寺に安置したといわれる薬師が本尊であるといわれる。
大正の大震災で被害を受け、今次の戦災で堂宇は焼失した。
昔、三宝寺門前に台町一里塚があった。
初代広重描く東海道五十三次の内、保永堂版の神奈川には、三宝寺門前を過ぎ台町の坂道に立ち並ぶ料亭が描かれている。
横浜市神奈川区台町7-1 045-322-1713
 
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