会津三十三観音霊場   第一番~第九番
 
第一番 第二番 第三番
大木観音(紅梅山 常安寺) 松野観音(物宝山 良縁寺) 綾金観音(長流山 金泉寺)
十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
僧・徳一が開基し、この村の長者・大木佐馬亮が創建したと伝えられる。

天正十七年(1589年)、伊達政宗の兵乱で伽藍の全てを失い、その後上杉景勝が再建している。

ご本尊は聖観世音であったが、現在は大木氏の念仏仏の十一面観世音が奉安されている。

ご朱印は大木様宅ではありません。
観音堂に案内があります。
寺伝によれば、この地へ留鍚した行基菩薩が堂宇を建立し慈福山・千光寺とした。

寺運が隆盛のころは奥の院・西蓮寺を建立して十二坊、三百余宇を有したが、元弘・建武からの兵乱で堂塔は破損、慶長十六年の地震で倒壊。

農民は小堂を建ててご本尊を移遷するが元禄六年、災火でお堂を失う。
その後、お堂を再建し物宝山・良縁寺と称した。

観音堂は300m程離れたところにあります。
寺伝によれば、元弘元年(1331年)葦名盛宗によって創建され、そのころは僧坊二十余宇を有した。

天正年間(1573~91年)の兵火で堂宇を焼失し、その後、僧・石伝によって寛文年間(1661~72年)の再建されたのが現在の御堂とのことです。

一方、金泉寺は慶徳寺六世・高照の開山と伝えられている。

お堂にご朱印が頂けるお宅の案内がありました。
平成25年8月10日 平成25年8月10日 平成25年8月10日
 第四番 第五番 第六番
高吉観音(吉例山 徳勝寺) 熱塩観音(護法山 示現寺) 勝観音(松島山 勝福寺)
十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
慈覚大師の草創とも伝えられ、文亀年間(1501~3年)に僧・盛尊の中興という。

観音堂に奉安されているご本尊は十一面観世音菩薩坐像。

元和七年(1621年)の火災で尊容を損じられたため、その後あらたに造顕されたのが現在の本尊とされている。

お堂にご朱印が頂けるお宅の案内があります。
弘法大師の創建と伝えるこの寺は、当初五峰山慈眼寺と称し真言宗であった。

寺域をおおう湯館、高井田、間瀬、高松、護法の五峰から山号を、観音経から寺号を名付けたといわれる。

その後、廃寺同様になっていたが、中興の祖・源翁和尚が復興に努め、以来、護法山示現寺に改め曹洞宗となった。

観音堂は山門を入った左手にあります。
都から松島へ向かう勝(すぐれ)という美しい女性がこの地にたどりついた時、病にかかり、村人の介抱にもかかわらず、息を引きとった。

後を追ってきた恋人のある中将が、女の死を知って大変悲しみ、その菩提のために観音像を造顕し、女の念仏仏を胎内に納め、お堂を建立しご本尊として奉安した。

これが松島山勝福寺のはじまり。

お堂にご朱印が頂けるお宅の案内があります。
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第七番 第八番 第九番
熊倉観音(紫雲山 光明寺) 竹屋観音(大雲山 観音寺) 遠田観音(福聚山 大光寺)
千手観世音菩薩 如意輪観世音菩薩 千手観世音菩薩
永正十七年(1520年)、鎌倉生まれの江月という僧が開基した。

参道正面に観音堂と本坊、右に客殿があります。

天正年間(1573~92年)に焼失したが本尊の千手観世音菩薩像は無事で、いまも観音堂に祀られている。

この千手観世音菩薩像は一尺七寸五分の像で、行基菩薩、あるいは慈覚大師作と伝えられる。
写真の観音様はお前立ちかな?
天正元年(1573年)に越後の僧・木翁快元の開山。

本尊の如意和観世音菩薩像は六本手、玉眼入りの檜材寄木造りで、鎌倉時代末期の特徴をもち、運慶の作と伝えられる。

お堂は正徳年間(1711~16年)に再建されたもので、村東の坂を上がった高所にあります。

観音堂は本堂の手前右手に山門がありそこを登ったところです。
大光寺は千余年の古刹であって、昔は七間四方の観音堂を有し、その他三重塔、百七、八十の堂宇に三十六の坊院もあって壮観を極めたという。

その後、衰退したのを越後の僧・安翁が再興したが、数度の火災で多くの古仏を失った。

今の観音堂には、三尺五寸の千手観世音菩薩像が祀られている。

観音堂は本堂の手前右手、観音様が傾いて見えるのは気のせいでしょうか。。。
平成25年8月10日 平成25年8月10日 平成25年8月10日
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