会津三十三観音霊場  第十番~第十八番
 
第十番 第十一番 第十二番
勝常観音(瑠璃光山 勝常寺) 束原観音(流古山 万蔵寺) 田村山観音(福聚山 養泉院)
十一面観世音菩薩 馬頭観世音菩薩 聖観世音菩薩
大同二年(807年)、南部の僧・徳一によって恵日寺、圓蔵寺らと共に創建された。

会津中央薬師といわれ、その当時の仏像が十二体も保存されている。(国の重文)

薬師本堂は室町初期の建物で、これも国の重文の指定を受けている。

立派なお堂は薬師堂で観音堂は白いお堂の方です。
創建年代は不詳、昔は満蔵寺といった。

文亀二年(1502年)には源順という僧が住んでいたらしい。

その後、明歴元年(1655年)より下野国日光山・妙道院の門徒となった。

本尊は地蔵菩薩、観音堂には一尺八寸の馬頭観世音坐像が祀られている。
養泉院は第十四番・蓮華寺の六坊の一つでその境内にあった。

天正十七年(1589年)、兵火によって焼失、僧・宥覚が現在地に移した。

現在のお堂は明治三十六年の建立。

観音堂は住吉神社の北にあり、養泉院が管理している。
平成25年8月10日 平成25年8月10日 平成25年8月11日
 第十三番 第十四番 第十五番
館観音(福聚山 観音寺) 下荒井観音(松命山 蓮華寺) 高瀬観音(吉高山 福昌寺)
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
十二番さんから300mほど、山号は同じですが、こちらは昔大町にあった一桂院の末寺らしい。

開基は不詳、天正三年(1575年)に僧・円智が補修をしたが、同十六年(1588年)に兵火にあって焼失、その後、村人によって再興された。

本尊は阿弥陀如来、境内の観音堂には六寸の聖観世音菩薩が祀られている。

ご朱印を頂くお宅は集落の入口にある案内図に記載されています。
康歴元年(1379年)、僧・仁範が芦名直盛の進めで開山。

天正十七年(1589年)に兵火のために焼失したが、文禄年間(1592~6年)、僧・宥覚が蒲生氏郷の協力を得て中興し飯富神社の別当として栄えた。

観音堂はもとは村北という所にあったが、寛永年間に別当の妙法寺が廃寺となったため、ここに移造したという。
承安・安元の頃(1171~77年)、京奥州を往来していた金売吉次の一行が村東の川を渡ったとき舟が増水のため転覆し、吉次の弟吉六が溺死したという伝説がある。

吉六の冥福を祈って建立したのがこの観音堂といわれる。

天正年間に僧・道谷が中興する。

読経していたら、おばあさんがこられて草むしりをされていました。
平成25年8月11日 平成25年8月11日 平成25年8月11日
第十六番 第十七番 第十八番 
平沢観音(広沢山 国姓寺) 中ノ明観音(妙吉山 蜜蔵院) 滝沢観音(一箕山 滝沢寺)
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
寺伝によれば文録元年(1592年)、僧・林廊の開創。

曹洞宗に属しており、東山の天寧寺の末寺であるが現在は無住。

観音堂には一尺二寸の聖観世音が奉安されている。

ご朱印はお堂に置いてあって自分ですることになります。
昔、村北に沼があって毎夜沼底から光を放つので、村人は不思議に思って底を探ってみると、大木が沈んでおり、中から三寸ほどの銅の観音像が現れた。

「中の明」の由来であって、この観世音を安置したのが観音堂である。

別当の蜜蔵院の開基は不詳、昔は観音寺と称した。

天文年間(1532~55年)に僧・宥栄が中興したと伝えられる。
林道を行き右側にある石段を下って行くと神社、不動堂と共に観音堂があります。

昔は一箕山の八幡神社の西に観音堂があって、永録九年((1566年)七月に芦名盛氏が鰐口を寄進したという記録があるが、今は寺もなく、宗派も分からない。

現在の観音堂は滝沢峠の南新道、滝沢不動院の境内にあって、一時姫神様と呼ばれていた。

戊辰戦後にここに移されたものであろうとのこと。
平成25年8月11日 平成25年8月11日 平成25年8月11日
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