武相四十八観音霊場  第一番~第十二番
 
第一番 第二番 第三番
鶴間山 東照院 観音寺 陽向山 随流院 大峰山 松岳院
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
東急田園都市線・つきみの駅から徒歩20分弱、国道246と旧国道16号のぶつかる目黒の交差点の手前、境川のほとりにあります。

本尊の十一面観世音は慈覚大師作。

青山往還の赤門とも呼ばれ、川崎の稲毛方面からの参詣者も多かったそうです。

武相薬師如来霊場の第二十一番札所でもあります。
JR横浜線、東急田園都市線・長津田駅から歩いてすぐです。

札所本尊の聖観世音菩薩像は地頭の岡野氏先祖の奥方の守り本尊で、その屋敷に安置されていたものという。

丈八寸の立像で雲慶の作といわれる。

「火防の観音」として親しまれている。
東急こどもの国線の「こどもの国」駅から少し戻った所にあります。

元亀三年(1572年)の開創。

知行主の石丸家の租、石丸有定の開基。

札所本尊の聖観世音菩薩像は、江戸時代には村内の南にあった奈良観音堂に安置されていたが、明治のはじめに水害にあったため、当寺に移されたもの。
平成23年4月2日 平成23年4月2日 平成23年4月2日
 第四番 第五番 第六番
三枝山 観性寺 鶏足山 智光院 養運寺 岩子山 千手院 普門寺
如意輪観世音菩薩 聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
無住ですが地元の方々が守りつづけ、昭和61年には立派な本堂が建立され、境内も整備されている。

奈良谷戸の東雲寺が本寺だそうです。

本尊は如意和観世音菩薩で行基菩薩の作と伝えられる。

本堂新築時に大仏師・松久宗琳作の子育て観音も祀られている。
大永年中の創立と伝えられるがさだかではない。

現在の観音堂は昭和二年(1927年)、第十五回御開帳のときに再建されたもの。

もとは大谷村との境にあった観音を、安永五年(1776年)に合祀したものである。

寺のある本町田はその名の示すとおり、原町田が開かれたのちに本の字を加えたものという。

写真は観音堂です。
門を入ると正面に本堂、左に弁天、正面の高台に観音堂がある。

「新編武蔵風土記稿」によると、この観音堂は小山田次郎重義か観音の像を感得して堂宇をいとなんだのが始まりという。

のち戦乱で焼かれ江戸時代に再興された。

札所本尊の千手観世音は、現在は本堂に安置されている。
平成23年4月2日 平成23年4月2日 平成23年4月3日
第七番 第八番 第九番
慈眼山 唐仏院 観音寺 清谷山 蓮華院 真照寺 枡井山 松連寺 観音堂
千手千眼観世音菩薩 千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
建久三年(1192年)、唐僧草堂に聖観音尊像を安置、中興・増繁。

慶長三年(1598年)、堂宇修造、次いで承応四年(1655年)、本堂を再建とあります。

鎌倉街道沿い、大栗川と乞田川とが合流する付近に観音寺があります。

当地は元弘三年(1333年)の新田義貞と鎌倉幕府との合戦の古戦場で、当寺で毎年5月16日に供養を行っているという。

多摩八十八ヵ所霊場、多摩川三十三観音霊場の札所でもあります。
長和年間(1012~1016年)の開創、開山は弘意僧都。

「新編武相風土記稿」に「観音堂、門を入りて左にあり、二間に三間、聖観音の銅像長一尺三寸なるを安す」とある。

この堂は明治二十九年(1896年)に焼失し、現在の堂は昭和61年(1986年)に再建されたものである。

境内に寛政六年(1794年)の「武相八番 子安観音」と刻まれた石碑がある。
武相観音霊場の石造物の中では最も古いものだそうです。
観音堂は、かつて松連寺のあった百草園の南方にあります。

「新編武蔵風土記稿」の松連寺の項に、観音堂は武相三十三札所の一つであると書かれており、江戸時代には松連寺の観音堂が札所であった。

明治の始めに松連寺は廃寺となり、仏像などは祐照庵という庵があったこの地に移されたという。

前立として十一面観音立像が安置されている。
平成23年4月9日 平成23年4月9日 平成23年4月9日
第十番 第十一番 第十二番
塩釜山 清鏡寺 補陀山 大泉寺 龍澤山 保井寺
千手観世音菩薩 聖観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
清鏡寺は観音堂の別当寺としてできた寺で、観音堂は境内北側の高台にあります。

本尊の千手観音は「お手の観音」と呼ばれて名高く、ご開帳の時には観音の手から出た五色の糸を切って御守りとする。

足腰の病気の治癒祈願で、草鞋や草履が現在も多数奉納されている。

堂内には一年かけて東京・神奈川・埼玉をめぐり、初観音には戻ってくる、十一面観世音菩薩も安置されている。
補蛇山という山号のとおり、全山を観音の霊場と見立てている。

ここの観音は「見合い観音」といって、1月17日の縁日には婚前の娘が盛装して参詣することで有名であった。

参道を観音馬場ともいって競馬が行われ、馬に乗ったまま堂のまわりを廻り、賽銭を投げ入れたりしたという。

観音様は今は本堂(写真)におられるのかな?
ここの観音堂は明治二十四年(1891年)に第十一場番札所の大泉寺の住職にお願いして、町田市下小山町の観音寺(無住)から、本尊如意和観世音菩薩と二体の仏像を移したことからはじまる。

そして、明治二十七年(1894年)、武相観音霊場に加入申込みをし、日野市新井にあった空寺の堂宇を求めて観音堂を建立したという。

本尊は、乳の観音様として信仰されている。

なお、新撰組隊士の斉藤一諾斎の墓がある。
平成23年4月9日 平成23年4月3日 平成23年4月9日
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