武相四十八観音霊場  第十三番~第二十四番
 
第十三番 第十四番 第十五番
吹王山 玉泉寺 高雲山 永泉寺 安榮山 明王院 福傳寺
聖観世音菩薩 正観世音菩薩 十一面観世音菩薩
玉泉寺の東方に越野自治会集会所があり、そこに聖観世音菩薩像(もかけの観音)が安置されている。

廃寺となった導義寺観音堂の本尊としてあったもので、金属製の宝冠・胸飾りをつけ、手は腹前で禅定印を結んでいる。

裳が蓮台にまでかかっている宋風のつくりであることから、もかけの観音と呼ばれている。

この観音像は室町時代の作である。
幕末に横浜へと輸出用の生糸が運ばれたルート、「絹の道」の近くに位置いています。

本堂は絹商人の八木下要右衛門の旧宅を用いています。

観音像は武田氏家居の永野和泉が当地に土着したときに、持ち伝えた聖観音と言われている。

「新編武蔵風土記稿」に、「聖観音の立像あり、長さ三尺ばかり、この観音領十石の御朱印あり、昔は別に堂ありしが、それも廃して今ここに安す」とあります。
元は隣接する子安神社の別当寺で、明治十三年(1880年)に明神町の清水寺を合併し現在の地に移転している。

観音堂は元録十四年(1701年)に、江戸の石原次春という物によって建立された。

十一面観世音菩薩は「子安観音」といわれ、安産・子育守護の観音として女性の信仰をあつめた。

子安神社には鏡板の中央に本地仏の十一面観音菩薩像を配している。
平成23年4月9日 平成23年4月9日 平成23年4月9日
 第十六番 第十七番 第十八番
慈高山 金剛院 中和山 泉龍寺 龍雲山 高乗寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面千手観世音菩薩
天正四年(1567年)の開山と伝えられる。

当時は現在地よりやや南に不動堂が建てられ慈高山明王院と称していた。

寛永八年(1631年)、高野山慈眼院末、慈高山金剛院として現在の地に創建された。

江戸時代には境内に三間四方の観音堂があって十一面観世音菩薩を安置していたが、昭和二十年(1945年)の戦火で焼かれてしまった。

現在は本堂や客殿をはじめ復興整備されている。
ここの聖観音は、公所の井上助右衛門が霊夢をみて亡き妻の供養と多くの人々のためにと寄進されたものである。

山門を入ると左手に、昭和五十九年(1984年)建立の新しい観音堂があり正観音が安置されている。

昭和三十八年(1963年)の開帳から武相観音霊場に加わった。(当初は武相四十九番)
応永元年(1394年)、臨済宗の法光円融禅師の創建。

片倉城主の長井大膳太夫高乗(広秀)の開基。

かつては現在地より奥にあったが、応永年間(1394~1429年)の中ころ現在の地に移転した。

観音霊場への加入は、昭和三十八年(1963年)四月、第五十番札所として認証され、平成十一年(1999年)の第二十一回卯歳開帳で第十八番札所となった、
平成23年4月16日 平成23年4月2日 平成23年4月16日
第十九番 第二十番 第二十一番
大龍山 福昌寺 北岸山 喜福寺 祥雲山 長安寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 正観世音菩薩
長津田、曹洞宗・大林寺第五世・国袖代三大和尚により開山。

江戸時代には二間四方の観音堂に十一面観世音菩薩を安置していたが、現在は本堂に安置されている。

もともとは麻布鳥居坂の鳥居和泉守の屋敷にあったもので、地頭御医師・岡本玄治から寄進され祀られたものである。

現在の本堂は平成四年の再建。
江戸時代には、観音堂は三間半に四間で聖観世音菩薩を安置していた。

その観音堂の後山を登ると、どんな干ばつにも水がかれない霊水があって、この水で洗えば病気はなおると「新編武蔵風土記稿」に書かれている。

明治二十一年(1887年)ころの大火で伽藍は焼失、現在の本堂は昭和四十六年(1971年)の建立。
千人同心の円山長安居士(島村豊後)の開基。

札所本尊の聖観世音菩薩は、明治初年に廃寺となった黄檗宗の宗明寺の本尊。

長安寺の本尊は准胝観世音菩薩、秩父三十四ヶ所の観音であったとのいわれもある。

なお、この寺にあった太子堂が、第二十四番札所の大戸観音堂として現在も残されている。
平成23年4月2日 平成23年4月9日 平成23年4月16日
第二十二番 第二十三番 第二十四番
常光山 観音院 真覚寺 聚林山 興福寺 祐照庵
(大戸観音堂)
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 正観世音菩薩
寺伝によると文歴元年(1234年)の草創と云われているが詳らかではない。

応永十八年(1411年)に、津久井城主・長山修理亮忠好公が京都醍醐・報恩院第十世・隆源僧正を招いて観音堂を創建し、観音堂の別当寺として創建された。

聖観世音菩薩を本尊とし、江戸時代には四間四方の堂であった。

日光勤番などを務めた千人同心とのかかわりの深い寺である。
開創は天正八年(1580年)、聚林山・千光院と号した。

開基は、関東十八番代官の一人、雨宮勘兵衛の租の雨宮秀徳。

観音堂について「新編武蔵風土記稿」には「本堂に向て左の方にあり、二間四方、北に向ふ、正観音木の座像、長五寸ばかりなるを安す、住古説楽源右衛門が妻建立せしといふ」とある。

現在、本尊の聖観世音菩薩は本堂に安置されている。
観音堂は享保三年(1718年)建立のものであるが、以前の堂が明治六年(1873年)に焼失してしまい、翌年に八王子市並木町の長安寺太子堂を移築し再建したもの。

札所本尊。正観世音菩薩は、石の座像で弘法大師作と称され、村人が水田から掘り出して背負いながら帰ったところ、この地で休んだら篭の底が破れてしまい、ここに祀るようになったものという。

境川流域では最も上流に位置する札所です。
平成23年4月16日 平成23年4月16日 平成23年4月16日
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