寺伝によると文歴元年(1234年)の草創と云われているが詳らかではない。
応永十八年(1411年)に、津久井城主・長山修理亮忠好公が京都醍醐・報恩院第十世・隆源僧正を招いて観音堂を創建し、観音堂の別当寺として創建された。
聖観世音菩薩を本尊とし、江戸時代には四間四方の堂であった。
日光勤番などを務めた千人同心とのかかわりの深い寺である。 |
開創は天正八年(1580年)、聚林山・千光院と号した。
開基は、関東十八番代官の一人、雨宮勘兵衛の租の雨宮秀徳。
観音堂について「新編武蔵風土記稿」には「本堂に向て左の方にあり、二間四方、北に向ふ、正観音木の座像、長五寸ばかりなるを安す、住古説楽源右衛門が妻建立せしといふ」とある。
現在、本尊の聖観世音菩薩は本堂に安置されている。 |
観音堂は享保三年(1718年)建立のものであるが、以前の堂が明治六年(1873年)に焼失してしまい、翌年に八王子市並木町の長安寺太子堂を移築し再建したもの。
札所本尊。正観世音菩薩は、石の座像で弘法大師作と称され、村人が水田から掘り出して背負いながら帰ったところ、この地で休んだら篭の底が破れてしまい、ここに祀るようになったものという。
境川流域では最も上流に位置する札所です。 |