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第六番 |
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岩子山 千手院 普門寺 |
千手観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
真言宗豊山派 |
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元来古い霊場であるが、戦火のために一旦は廃寺となり、天正年中に十二石の寺領を賜りて再興されたという。
またその時の開山を恵満と伝える。
現在の本尊は三代目で、寛永五年(一六二八)仏師安芸守の作である。 |
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東京都町田市小野路町2057 |
042-735-2151 |
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第四十五番 |
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金光山 観泉寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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元和元年(一六一五年)五月、大坂夏の陣にてこの地の地頭、
飯田右馬助昌有が戦死しました。
開基(お寺の創設者)は、飯田右馬助昌有の子、飯田次郎右衛門昌重(清安院殿白栄全龍居士)。
父の菩提供養の為、飯田次郎右衛門昌重が飯田家の持仏である「木像・観世音菩薩半跏像(別名子安観音)-の胎内に父の遺髪を納めて町田市下小山田町・大泉寺第十一世聖翁存祝大和尚(寛永七年月一一十六日示寂)をご開山(初代住職)に迎え、寛永三年(一六一一六年)に開創されました。 |
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東京都町田市真光寺町1210 |
042-735-1575 |
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第七番 |
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慈眼山 唐仏院 観音寺 |
千手千眼観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
真言宗豊山派 |
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建久三年後鳥羽天皇の御代、唐僧草堂に聖観音尊像を安置し奉る。
中興増繁、慶長三年堂宇修造、次いで承応四年本堂を再建す。
時を経て、明和年間部落大火の類焼を受け烏有に帰したが、七世秀慶により再建せらる。 |
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東京都多摩市関戸5−31−11 |
042-375-7432 |
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第八番 |
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清谷山 蓮華院 真照寺 |
千手観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
真言宗智山派 |
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当山の観音様は、源頼義、義家父子が奥州征伐のおり立寄ったといわれ、また江戸時代には子安観音として広く信仰されていた。 |
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東京都日野市落川1113 |
042-591-1687 |
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第九番 |
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枡井山 松連寺(百草観音堂) |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
黄檗宗 |
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この観音堂には、厨子に納まる聖観音立像壱体(ご本尊)と、その前立ちとして十一面観音立像壱体、その他が安置されている。
江戸時代に武相三十三札所の一つとなっていたものは、旧松連寺内の観音様で千手観音を安置してあった。観音堂建立の年代は詳かではないが、宝永五戊子歳(一七〇八)以前であることは、寄進の手洗鉢(石造)の刻年によっても明らかである。
ところが、松連寺は明治六年廃寺となので同寺の宝蔵をこの地に移築して新たな観音堂とし、松連寺内に奉安されていたと思われる十一面観音像をはじめ諸仏像並びに開山像等をここに安置した。 |
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東京都日野市百草909 |
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第十番 |
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塩釜山 清鏡寺 |
千手観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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本尊千手観音は、一一六四年(長寛二年)住職良鯨和尚の夢枕に観音様が出現し、手を一つ差し出して「この手を持って鎌倉を尋ね、御仏体を作って欲しい」と告げられた。
完成した観音様を山頂に安置して以来「御手の観音様」として信仰厚く、毎月十六日縁日、一月十六日は初観音大祭として御供養を続けている。 |
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東京都八王子市大塚378 |
042-676-8801 |
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第十二番 |
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龍澤山 保井寺 |
如意輪観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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当寺観音堂は、明治一一十四年当寺二十三世滝沢禧巌和尚が観音様を求めたく、町田市下小山田観音寺(無住)の寺より大泉寺の住職に請願し当寺へ遷請する。
本尊如意輪観世音菩薩と二体の仏像を遷請し、明治二十七年三月に行われた卯歳の武相観音札所申し込みの為、日野市新井にありし空寺の堂宇を求めて建立。 |
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東京都八王子市堀之内547 |
042-676-941 |
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第四十四番 |
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大沢山 宗印寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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当山は昔安行寺無量院であった処と云われている。
宗印寺は、その後荒廃せる同院を永林寺第七世傑秀賢鶯和尚(寛永十四年五月四日示寂、行年七十八歳)により再興、曹洞宗として開山第一世なり。
開基は中山助六郎照守という。 |
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東京都日野市平山6−15−11 |
042-592-6699 |
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第十三番 |
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吹王山 玉泉寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
真言宗智山派 |
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像の胎内には天正九年の、造像銘を有するといわれている。
四百十七年前の作となる。
この像は、現在廃寺となっている導儀寺にあったものであるが、明治の初年に現在の地に移り、玉泉寺観音堂の本尊となっている。 |
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東京都八王子市越野726 |
046-676-8050 |
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第四十一番 |
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金峰山 永林寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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武相十郡の大守、滝山城主大石定久公の支城の一つであった由木城を、大石定久公よりゆづり受けて種長純禅師が開山。
最初は道俊院心月閣と称していた。
天文十五年大石定久公の養子である八王子城主北条氏照公により、七堂伽藍の完備した大禅寺を完成し、永麟寺と改名する。
天正十九年十一月、徳川家康公が当寺に巡拝の折り、朱印十石、公卿格式拾万石を受けて大名寺となり永林寺と改名する。
当寺鎮護の聖観世音菩薩は、当寺二十二世であり、総寧寺四十
四世の智海禅師により文政六年につくられたものである。 |
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東京都八王子市下柚木4 |
0426-76-8410 |
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第四十番 |
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飯盛山 永昌院 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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開山岳応義堅大和尚本寺は下柚木永林寺三世。
開創天正十年開基は勝沢豊前守。
約四百年前天正十年(本能寺の変があった年)に開かれ、特に三代将軍徳川家光公の信仰厚く朱印七石を特に賜わり関八州の崇敬の的でありました。 |
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東京都八王子市中山452−2 |
0426-76-8693 |
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第三十五番 |
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上柚木 観音堂 |
準提観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
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開創の年代は不明である。
文化年代由木永林寺の住職知海和尚のすすめで伊藤氏が願主とな、並木原に堂を再建した。
その当時の本尊は石造の準観音であったが、明治のはじめ火災に遭い、破損したため、新たに木像の準提観音をつくり並木原より現在の神明に移転し堂を再建した。 |
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東京都八王子市上柚木402−2 |
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第十四番 |
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高雲山 永泉寺 |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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弘治年中甲斐武田家同族争いに追われた老臣永野和泉は武田家重宝聖徳太子御作と言われる正観音像を所持して諸家臣と共に当地に土着。
一宇(後の永泉寺)を建立し永林寺三世岳應義堅大和尚(当寺開山位に拝請)に剃髪得度し覚峰文公と命名当寺開基。 |
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東京都八王子市鑓水80 |
042-676-8104 |
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第二十七番 |
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瑞石山 清水寺 |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
臨済宗妙心寺派 |
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当山正観世音菩薩は、鎌倉時代の作にして徳川家斉公の代に相模の国相原村を統括していた地頭の姫君が中臈として、大奥に召され中臈の宿命的悲哀の半生を観自在菩薩の大悟に精進した此の如来化身の所業を讃歎し深く感銘された相原村出身の勘定役青木勘治郎氏は、自ら諸法無常を念じ、且っ地元民の信望を双肩に担い喜捨を募りその財をふるって、当瑞石山の地に一堂宇を建立した。 |
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東京都町田市相原町701 |
042-772-0750 |
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第四十二番 |
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白華山 慈眼寺 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
曹洞宗 |
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当寺の十一面観音は伊予国豊田郡七宝山観音寺の写しという。
文安二年(五七八年前)、畠中進江なる者一寺を建立発願の日、心安守公に議し賛成を得て功を奏すという。
宗派不明。 |
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東京都八王子市片倉町944 |
0426-36-6930 |
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第十五番 |
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安榮山 明王院 福傳寺 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月04日(火) |
真言宗智山派 |
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天文二年以前に開山されました。
江戸時代は子安明神社(現。子安神社)領六石を幕府より賜り、別当として社務を司っていました。
明治維新の廃仏毀釈により、別当は廃止され、明治十三年清水寺と合併しました。
昭和二十年八月二日の八王子大空襲により堂宇は悉く灰燼に帰しますが、戦後再建整備が行われ、現在の姿となりました。 |
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東京都八王子市明神町4−10−6 |
042-642-4262 |
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