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第二十番 |
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北岸山 喜福寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
真言宗系単立 |
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本尊聖観世音菩薩椹沢伸行先生作楠材一木造り身長八尺・総丈一丈一尺五寸。
伝によれば当山聖観世音は千有百余年前に造立され、当寺開以来密教の秘仏として存在され、時に北条氏康公より広大な領地を受け、又徳川時代は御朱印地を頂き、厚い保護を受けて参りました。 |
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東京都八王子市中野山王2−11−6 |
042-622-6712 |
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第十六番 |
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慈高山 金剛院 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
高野山真言宗 |
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天正四年(一五六七)の草創時、世は戦乱のさなかにありました。
寺伝によれば、開山真清が現在地より南方の地に建てた明王院と称する不動堂がその始まりとされます。
江戸期に入り八王子の宿場が形成される頃、慈高山金剛院と号して、現在の地(八王子陣屋跡東南の一画)に新たに伽藍が建立されました。
延宝八年(一六八〇)、高野山慈眼院末となりました。
明治一一十四年に準別格本山の格院認可を得て金剛峯寺の直末となりました(平成四年より別格本山)。 |
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東京都八王子市上野町39−2 |
042-622-9540 |
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第四十三番 |
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金龍山 信松院 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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信松院は、武田信玄公息女松姫さまが開基した寺である。
松姫は永禄四年信玄側室油川夫人を母として出生した。
七歳にして織田信長の長男信忠公と婚約したが、三方ケ原に於いて武田信玄、徳川家康が戦々を交わるに及び、徳川に信長が援軍を送ったことで、武田、織田の同盟は破れ、従って松姫、信忠の婚約も解消された。
年は移り天正十年、武田家は天目山で、一族討ち死にという悲劇に終わった。
松姫は八王子に落ち延び、ここで心源院というてト山禅師の下に仏門に入り信松尾尼と称したのである。
天正十八年尼公自身の庵を結んだのが現在の信松院です。 |
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東京都八王子市台町3−18−28 |
0426-35-1363 |
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第四十六番 |
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一乗山 吉祥院 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
真言宗智山派 |
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本尊大日如来を安置する真言の密寺にして、草創の時よ八王子市日吉町に所在していたが、享保年間、明治年間そして昭和二十年の戦災等、数度の火災を被り、その都度復興、中興開山義晃僧正の発願により、昭和二十九年現在地に移転。 |
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東京都八王子市長房町58−3 |
042-661-5448 |
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第二十一番 |
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祥雲山 長安寺 |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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長安寺の本尊は準提観世音菩薩なり。札所に参加しているのは、当寺の近くにありしといわれてある宗明寺の本尊である正観世音菩薩で、この寺が廃寺になり、長安寺に合併したものである。 |
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東京都八王子市並木町7−1 |
042-661-6975 |
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第二十二番 |
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常光山 観音院 真覚寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
真言宗智山派 |
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草創は寺伝によれば文歴元年といわれているが詳びらかもでない。
応永十八年、津久井城主長山修理亮忠好公が京都醍醐報恩院第十世隆源僧正を招いて観音堂を創建し、別当寺として真覚寺を起こした。
天正十九年寺領五石の御朱印地を賜り、寛永十年観音堂を再建、万治年間には鐘楼堂を建立した。
正徳十年伝誉上人が中興となり、天保年間には鐘楼堂の再建、嘉永年間には現在の唐様式の本堂を建立し、ほば今日の伽藍の姿を整えた。 |
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東京都八王子市散田町5−36−10 |
042-661-5921 |
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第二十三番 |
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聚林山 興福寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗系単立 |
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天正八年(一五八〇年)に関東十八代官の一人、雨宮兵衛の祖である雨宮秀徳(興福寺殿観窓秀徳居士)によって創建(開基)されました。
慶長一一年(一五九七年)に龍鳳寺(現、神奈川県厚木市小野)第四世香山充孫大和尚によって開山され、同寺の末寺となります。
元和五年(一六一九年)に開基家の雨宮次郎右衛門(千光院秋庵英金居士)とその妻(聚林院月窓祐鑒大姉)の諡(おくりな)を山号及び寺院名とし、聚林山千光院と号するようになり現在に至ります。 |
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東京都八王子市東浅川町754 |
042-661-6145 |
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第十八番 |
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龍雲山 高乗寺 |
三十三観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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応永元年(一三九四)高乗寺を開かれたのは、臨済宗の法光円融褝師峻翁令山という方で、片倉城主永井大膳太夫高乗公がその創立に深く係わっていたことが見られ、開山堂には高乗寺開基として位牌が祀られています。
戒名は「高乗寺殿大海道廣大禅定門」で、高乗寺の寺名はここに由来しています。
長禄元年(一四五七)曹洞宗の高僧・空海褝忠大和尚が諸国を巡錫中、現在の初沢の地へ移転し伽藍を復興して中興開山となり、群馬県富岡市最興寺より通菴浩達大和尚を御開山に請し、永正二年(一五〇五)曹洞宗に改められました。 |
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東京都八王子市初沢町1425 |
042-661-6852 |
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第二十四番 |
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祐照庵(大戸観音堂) |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
臨済宗南禅寺派 |
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大戸は往古鎌倉又甲州街道への要地として、大木戸番所の備えあり。
里人大木戸を大戸と称して、何時か地名の起こりと今に言い伝えあり。
傍に了心庵なる一草庵あり。
後に山田雲津院末これを祐照庵といい、境内に観音堂を建立し部落の鎮護とする。
現本尊は正観世音菩薩、石の座像しにて、弘法大師の作と称される。 |
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東京都町田市相原町4643 |
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第二十五番 |
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金剛山 普門寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
真言宗智山派 |
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天平年間に行基菩薩により開基されたと伝えられる。その後、江戸時代に至るまでの歴史は明らかではないが、昭和後期に発掘された板碑の年代等を見ても、当地において常に重要な霊域であったことが窺い知れる。
慶安元年(一六四八)徳川幕府より十七石七斗余りの御朱印地を賜り、元禄十一年(一六九八)頼真により中興開山され、後に大本山高尾山薬王院の筆頭末寺となる。 |
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神奈川県相模原市緑区中沢200 |
042-782-2100 |
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第三十八番 |
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大悲山 慈眼寺 |
聖観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
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安政七年0興隆にして享保年間沢山法師あり、慈眼寺堂宇を結び享保三年戌年十一月、六十二歳にて没す。 |
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神奈川県相模原市緑区城山4−367 |
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第二十六番 |
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大龍山 長徳寺 |
如意輪観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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慶長年間に建立、然る所、当寺九代の時他家より火災起こり、その災厄にかかり焼失、十代和尚の時再建、現在に至る。 |
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神奈川県相模原市緑区大島756 |
042-761-9594 |
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第三十番 |
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白瀧山 高巌寺
<元町自治会館> |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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上溝堂ヶ谷戸に堂字があったが、明治末期に現在地に遷す。
堂宇を現在地に移転するに及び、信者の管理から自治会の管理するところとなり、現在に至る。 |
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神奈川県相模原市中央区上溝6−18−4 |
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第三十一番 |
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声音山 観心寺 |
正観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
時宗 |
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堂は天正十八年小田原北条滅亡後も度々水害を被り慶長十九年、現在の場所に遷された。 |
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神奈川県相模原市南区当麻774 |
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第三十二番 |
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補陀山 清水寺 |
十一面観世音菩薩 |
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令和5年04月17日(月) |
曹洞宗 |
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当山にある韋駄天厨子の安置した宝永五年(一七〇八)春記された記録に依りますと、清水寺は、坂上田村麻呂が大同一一年(八〇七)に草創したものであるとしてあります。
慶長元年(一五九六)の頃、御本尊千手観音様が盗難に遭いましたが、時を同くして、寺の井戸(現在参道の右側にある小さな古井戸)から現在の十一面観音様が出現しました。
衆生を済度せんとする仏の霊場の不可思議であります。
同じ頃龍淵山天応院より天山存雪大和尚が、この寺に来山されて、この寺を開山し、補陀洛山清水寺と命名した。清水寺第一代の開祖である。 |
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神奈川県相模原市南区下溝1457 |
042-778-0644 |
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