東上州三十三観音霊場   第十九番〜第二十七番
 
第十九番 第二十番 第二十一番
脇屋山 聖徳院 正法寺
<脇屋観音>
四軒在家観音堂 清池山 医王寺
<小金井観音>
聖観世音菩薩 千手観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
延喜年間(901〜923年)の創建。

新田義貞の弟、脇屋儀助の菩提寺となった。

立派な仁王門があり大きな鰐口が掛っています。

聖観音は行基作と伝えられる高さ1.5mほどの寄せ木造り、県の重文で本堂裏手の収蔵庫に安置されている。

また、普段は本堂に前立観世音が安置されている。
文化十三年(1816年)以前、徳寿院という寺院が新田町田中という場所にあったが、大正時代の区画整理で今の観音堂を移転させた。

この時、近所の4軒が観音堂を管理した。

これにより四軒地区と呼ばれた。

観音像は高さ41pの檜の寄せ木造り。

ご朱印は観音堂の道を挟んだ北側、川島氏宅で頂きます。
『醫王寺の秘仏』大日大聖不動明王は、万延元年(1860年)に四国の西林寺からうつした不動像。

西林寺は聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が天平十三年(741年)に開創した古い寺で、近くにあった一の宮の別当寺であったらしい。

その後、大同二年(807年)弘法大師が留錫し、寺を少し西南に移し再興した。
本堂は最近再建、温和なご住職から色々お話をお聞きしました。

北関東36不動霊場の第十番札所でもあります。
平成23年12月23日 平成23年12月23日 平成23年12月23日 
 第二十二番 第二十三番 第二十四番
寺尾山 聖王寺 慈眼院
<鶴生田観音>
妙智山 善泉寺(慈眼寺)
<縁切り観音>
 
千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩
室町時代後半、武田信玄との戦いで出た多くの犠牲者の菩提を弔うため一寺が建てられた。

後、武田勝頼が戦死すると、家居の武田信繁の子が寺井の地に一族の供養のたけ寺を再興し、正応寺とした。

江戸時代に現在地に移転され、寺名も聖王寺と改めた。

観音像は恵心作とされる千手観音だったが、現在は信者が寄進した観音像が祀られている。
観音像は雲慶作とされる高さ約40pの十一面観世音菩薩像。

かつては12畳ほどの寄せ棟造り、茅葺き屋根のお堂であり、住人がいたらしい。

 今では住人が他所に移転してしまったため、建物自体も簡素化された。

旧建物の欄間などが残っていたが、放置されたまま朽ちてしまったという。

ご朱印は観音堂に向かって左手の北沢氏宅。
観音堂は菅塩住民センター東側に新しくなって建っています。

観音堂は大正時代、北金井町の慈願寺に合併された。
 
現在では善泉寺が24番札所になっている

最初の観音像は盗難により紛失。
観音堂の観音様は頭の部分が欠けています。
その隣には新しい?観音様が祀られています。

写真は順番に慈願寺、観音堂、観音様、善泉寺。
平成23年12月23日 平成23年12月23日 平成23年12月23日
第二十五番 第二十六番 第二十七番 
八幡山 法楽寺 広沢山 大雄院 古庭観音堂
<古庭観音>
 
聖観世音菩薩 馬頭観世音菩薩 聖観世音菩薩
創建は不詳。

天喜五年(1057年)、源(八幡太郎)義家が朝廷に背いた奥州の安部貞任を征伐する際、祈願のために立ち寄った。

戦いに勝利し、寺の前の舞台で法楽を舞った。

これにちなみ、山号を八幡山、寺名を法楽寺としたという。
鎌倉時代、現在の地付近に閻魔大王を祀った大王院と呼ばれる寺があり、これが始まり。

天正十一年(1583年)、由良氏の家居・藤正善久の開基、上野国沼田・舒林寺七世春朔を迎えて開山とした。

石段を登り立派な山門をくぐると正面に大きな本堂、本堂の左手に池があり、正面に三重塔、左手に観音堂が建っています。

札所本尊の馬頭観音はガラス越しに見る事ができます。
観音像は天正年間(1573〜1592年)、戦乱の中、津久井家の祖先が三浦半島から持ち帰り、先祖の菩提を弔ったもの。

観音堂は現在はありません、3年位前に古くなったので取り壊してしまったそうです。
(周囲を3,4回ぐぐぐると探し回ってしまいました)

本尊の聖観世音菩薩像は津久井氏宅で保管されています。
平成23年12月23日 平成23年12月23日 平成23年12月23日
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