北陸三十三観音霊場   第十番〜第十八番
 
第十番 第十一番
萬松山 大安寺 摩尼宝山 瀧谷寺
正十一面観世音菩薩 聖如意輪観世音菩薩
福井藩第四代藩主松平光通が大愚宗築を開山として、越前松平家の永代菩提所として万治元年(1658年)に創建した。

境内地は天正ニ年(1574年)に織田信長の越前侵攻に伴い焼失した竜王山 田谷寺の跡地である。
田谷寺は、伝承によれば、奈良時代に「越の大徳」と言われ、山岳修行僧だった泰澄によって創建されたという。

ほぼ全ての建造物が第二次世界大戦や福井地震の影響を受けることなく創建当時のまま残存し、5棟が2008年に国の重要文化財に指定された。
南北朝時代の永和元年(1375年)、睿憲上人によって開山されました。

永和三年(1377年)睿憲が崎浦に建てた庵に始まり、永徳ニ年(1381年)今の場所に移った。


戦国大名の朝倉氏や柴田勝家、福井藩主の松平家、丸岡藩主の有馬家ら、歴代領主の祈願所として、当寺は篤い帰依と保護を受けました。
幕末には、京都より勤王僧「道雅」が来て法統を継いだことで、梁川星巌や梅田雲浜らの志士がしばしば当寺を訪ねて国事を論じました。
以来、当寺は真言宗の古刹として610余年、現住51世におよんでいます。
平成23年8月21日 平成23年8月21日
第十二番  第十三番
自生山 那谷寺 護国山 宝円寺
 
聖如意輪観世音菩薩 十一面観世音菩薩
那谷寺を抱くようにしてそびえる白山は往古の昔、その気高い山容から、 清らかで優麗な女神の住む山として神聖視され、信仰の対象となっていました。

 奈良時代の初め、その白き山に登り、白山の神が十一面観音と同じ神であることを感得したのが「越の大徳(たいとこ)」とよばれ、多くの人々の崇敬を集めた名僧・泰澄法師です。

 法師はさらに養老元年(717年)霊夢に現れた千手観音の姿を彫って岩窟内に安置しました。法師は「自生山 岩屋寺」と名付け、寺は法師を慕う人々や白山修験者たちによって栄えました。これが那谷寺開創の由来と伝えられます。
天正九年(1581年)、加賀藩祖・前田利家が創建した、前田家代々の菩提寺。

御影堂は、利家が伏見で徳川家康と会見した際、死を決して自画像と髪を埋めた場所と言われている。
利家の葬儀もこの寺で行われた。

本尊・十一面観世音菩薩は利家家ゆかりの宝久寺の本尊で遲川神社の本地仏でもあり白山信仰ともかかわりのある御仏で先師の意志により本寺に移したもの。

明治時代に火災に逢った。焼け残った仁王尊一対が修復され、現在は安置されている。
平成23年8月21日 平成23年8月22日
第十四番 第十五番
長谷山 観音院 諸嶽山 總持寺祖院
 
十一面観世音菩薩 僧形観世音菩薩
本尊十一面観世音菩薩をまつり、金沢の発祥にちなむ歴史的由緒をもっています。

すなわち、聖武天皇の天平年間(740年ごろ)加賀国野々市の里に藤五郎という善人が居り、芋を掘って暮らしていたので、芋掘藤五郎と呼ばれていました。芋と共に砂金を見つけ、金洗沢で洗ったので「金沢」の地名がおこり、藤五郎は長者になりました。

藤五郎夫妻は観音の信仰厚く、行基菩薩に願い、大和の長谷観音の同木で十一面観音をちょうこくしていただき、当寺を創建したところ、益々家運が栄えました。一族は七村なり、その氏神として、大和、鎌倉と並び加賀の長谷観音とうたわれました。
かつての曹洞宗の大本山「總持寺」。本山の機能が横浜市へ移転する際に、移転先が「大本山總持寺」となり、能登の「總持寺」は「總持寺祖院」と改称され別院扱いとなる。

今から約7百年前元亨元年(1321年) 瑩山紹瑾禅師によって開創されました。
翌元亨ニ年夏禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。
その後寺運益々隆盛を極め全国にその末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。
これを機に布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。
平成23年8月22日 平成23年8月22日
第十六番 第十七番 第十八番 
白雉山 岩倉寺 鷹王山 上日寺 白雉山 明泉寺
 
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
白雉三年(651年)に幸徳天皇の勅願所として開山。

本尊の秘仏「千手観世音」のあらたかな霊験が朝廷に聞こえ、七堂伽藍の建立や寄料田を付されるなどの加護をうけました。

長い年月の間に難火による消失や、戦国の焼き討ちに見舞われるなどの波乱もありましたが、地域宗派を越えて能登人の厚い信仰の中で復興され、守られながら歴史を重ねてきました。

駐車場の左側の道を車で上がることもできますが、急勾配でせまいので登らない方が良いと思います。
寺伝によると、昔、由利弱大臣という勇傑の人があり、天皇の命で悪盗賊を征伐しましたが、奸邪のさまたげにあい、都に帰ることができなくなりました。

一羽の鷹を愛し、その脚に書を結んで放つと、家に飛んで返書を得て帰ってくるのでしたが、ある時、嵐に会って波に呑まれ海中に沈んでしまった。

都に復帰できた大臣はこの鷹の菩提を弔うため寺院を創建し千手観音を安置したのです。
明泉寺縁起は白雉三年(652年)に開創された真言宗の古刹であります

孝徳天皇により勅願時と定められ弘仁年間には弘法大師の修行も伝えられています。

平安時代の初期の本尊千手観音立像を始め丈六の阿弥陀如来坐像、木造では最大といわれる釈迦如来坐像、鉈彫りの阿弥陀如来立像、十二神将など多くの藤原時代の仏像が遺存することによって古代の明泉寺を偲ぶことができます。
平成23年8月22日 平成23年8月23日 平成23年8月23日
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