寛喜ニ年(1230年)、鎌倉大楽寺の高弟・観行律師が一人の貴婦人を共ない、源頼朝公の守本尊・十一面観音菩薩像を始め、多くの宝物を携えて、此の地に七堂伽藍を建立し、頼朝の菩提を弔いました。
その後、幾多の兵乱によって盛衰を重ね、現在地に移転したもので、以前は現在地より北側三百mの地点に広大な寺域を占め、七堂伽藍があったと伝えられています。 |
白鳳七年(679年)法道上人の開基にして、もと越中国利波郡糸岡郷五社村にあり、宝幢院本覚山観音寺と号す。
七堂伽藍林立し、盛んに仏法を弘通せしが、弘仁の頃、弘法大師北陸御巡化の砌り一夜止宿し給いしに、夢に阿弥陀如来が現れ「末世衆生済度の為に観世音菩薩の身を現ず、願くば汝観世音の像を彫んで永く六道輪廻の衆生を化益すべし」とありありとお告げを賜り、大師は聖観世音菩薩の像を造り、安置されました。
天正十七年、木舟の城主前田又次郎利秀公が石動へ築城されると、観音寺も同時に当所へ移り、石動城の永久の祈願所とななりました。 |
養老ニ年(718年)にインドから渡来した善無畏三蔵が創建したと伝えられています。
奈良時代に聖武天皇の勅願所として、行基が勅命を受けて壮大な伽藍を造営。
行基が御前立観音を彫り、本尊は秘仏になりました。
江戸時代には加賀藩前田家の祈願所になり、ニ代藩主前田利長が仁王門、観音堂を寄進するなど、その保護により寺観が整えられ数多くの宝物を有します。
安居寺には西国三十三ケ所のミニ霊場があり、観音菩薩像などの石像が立てられています。 |