北陸三十三観音霊場   第十九番〜第二十七番
 
第十九番 第二十番 第二十一番
小嶋山 妙観院 白良山 山田寺 鷹王山 長楽寺
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩
草創期は定かではありませんが、七尾城本丸付近の寺屋敷から移転したものと伝えられています。
観音堂には、その昔弘法大師が漂着した霊木に一刀三札で刻んだと言われる秘仏「聖観音菩薩」が祀られており、三十三年に一度の開帳が行われます。
昔の山門はア−チ型の岩の門で、大正時代末までは門の前は海でした。
しかし、岩は風化したため木造になり、海は遠くなりました。
また、当山は「七不思議」をはじめ古くから伝説の多い寺院で、七尾名所や能登八景・七尾八景に含まれ、多くの見聞記が残されています。
天平宝字元年(757年)、泰澄み大師の開基と伝えられる。

本尊の十一面観世音菩薩は行基の一刀三礼の作であると伝えられています。

その後、正親町天皇の綸旨を奉じた利家によって再興されましたが漸次寺運傾き、宝暦ニ年(1752年)、尭正和尚により本堂と観音厨子を再興、文化九年(1812年)、良遍和尚の時、境内に白山大権現を迎え、神輿も造られ盛況を呈した。
前身を安楽寺と称し、天平時代から栄え三百の僧房と三千の僧侶がいた石動山天平寺の別院で七堂伽藍と三十三房がありましたが、上杉謙信の兵火によって焼失しました。

加賀前田藩の重巨長家から連頼公の姫君の眼病治療を請われた天平寺管長・玄秀大阿闍梨が三社権現堂(観音・不動・金毘羅)の三七日の祈祷により成就された報恩として寺領の寄進を受け、当地に移して寺院を再建し、寺号名称も長家の長の寺を入れて長楽寺と改称した。
平成23年8月23日 平成23年8月23日 平成23年8月23日
 第二十二番
洞谷山 永光寺
聖観世音菩薩
現在では、瑩山禅師開山の遺跡的寺院として、大本山に總持寺が選ばれているが、歴史的には、瑩山禅師が道元禅師に於ける永平寺のように、自らの理想としたのは永光寺であったと見られている。

正和ニ年(1313年)に海野三郎滋野信直夫妻、酒匂頼基・藤原家方の外護により建立された同寺は、瑩山禅師を開山として仰ぎ、文保ニ年(1318年)には、信直の妻である祖忍尼から寺領が寄進されている。この開山の様子は『洞谷記』に詳しく示されるところである。

後醍醐天皇・後村上天皇・後土御門天皇からも寄進、或いは綸旨を受けて寺格を上げ、また輪住制を布いて日本曹洞宗の地方発展に貢献している。

瑩山禅師は、山内に如浄禅師・道元禅師・懐弉禅師・義介禅師、そして自らの嗣書や舎利、遺品などを埋葬して開山堂とし「五老峰伝灯院」と命名した。

そして、瑩山禅師はこの五老峰を守るべきであると遺嘱している。元弘三年(1333年)には、護良親王の祈願所となり、暦応ニ年(1339年)には利生塔が建てられた。
平成23年8月23日
第二十三番
朝日山 上日寺
千手観世音菩薩
氷見市朝日山の中腹にあり、白鳳年間、西暦681年に法道上人の創建で、かつて泰澄大師修行の霊地と伝えられています。

ご本尊は竜宮から現れたと伝承される千手観世音菩薩で、三十三年毎にご開帳されます。

平安時代には越中国主・藤原仲遠、戦国時代には氷見森寺城主・長澤筑前守の帰依を受け伽藍を整備、江戸時代には藩主・前田家の祈願所となりました。

境内の入り口にある銀杏は、推定樹齢一千年余り、国の天然記念物に指定されています。
平成23年8月23日
第二十四番
摩頂山 国泰寺
 
聖観世音菩薩
永仁ニ年(1296年)慈雲妙意が二上山に立てた草庵に始まるとされる。その後、妙意は草庵を訪れた孤峰覚明の勧めを受け、覚明の師で普化宗の祖心地覚心に師事した。正安元年(1299年)二上山に戻り草庵を寺として摩頂山東松寺と号した。

嘉暦三年(1328年)後醍醐天皇から護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺の号が下賜されたと伝える。戦国時代には、二上山に築かれた守山城をめぐる兵火により焼失したが、神保氏の支援により復興された。

戦国時代末期の天正十三年(1585年)閏8月に前田利家の命で方丈が没収され守山城の書院に転用された。
江戸時代に入ると5代将軍徳川綱吉はこの寺を法燈派の本山に指定したという。

明治初年には普化宗の解体などにより衰退して臨済宗相国寺派に統合されたが、明治38年(1905年)に臨済宗国泰寺派として独立した。
平成23年8月23日
第二十五番 第二十六番 第二十七番 
等覚山 蓮華寺 本覚山 観音寺 弥勒山 安居寺
 
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
寛喜ニ年(1230年)、鎌倉大楽寺の高弟・観行律師が一人の貴婦人を共ない、源頼朝公の守本尊・十一面観音菩薩像を始め、多くの宝物を携えて、此の地に七堂伽藍を建立し、頼朝の菩提を弔いました。

その後、幾多の兵乱によって盛衰を重ね、現在地に移転したもので、以前は現在地より北側三百mの地点に広大な寺域を占め、七堂伽藍があったと伝えられています。
白鳳七年(679年)法道上人の開基にして、もと越中国利波郡糸岡郷五社村にあり、宝幢院本覚山観音寺と号す。

七堂伽藍林立し、盛んに仏法を弘通せしが、弘仁の頃、弘法大師北陸御巡化の砌り一夜止宿し給いしに、夢に阿弥陀如来が現れ「末世衆生済度の為に観世音菩薩の身を現ず、願くば汝観世音の像を彫んで永く六道輪廻の衆生を化益すべし」とありありとお告げを賜り、大師は聖観世音菩薩の像を造り、安置されました。

天正十七年、木舟の城主前田又次郎利秀公が石動へ築城されると、観音寺も同時に当所へ移り、石動城の永久の祈願所とななりました。
養老ニ年(718年)にインドから渡来した善無畏三蔵が創建したと伝えられています。

奈良時代に聖武天皇の勅願所として、行基が勅命を受けて壮大な伽藍を造営。
行基が御前立観音を彫り、本尊は秘仏になりました。

江戸時代には加賀藩前田家の祈願所になり、ニ代藩主前田利長が仁王門、観音堂を寄進するなど、その保護により寺観が整えられ数多くの宝物を有します。
安居寺には西国三十三ケ所のミニ霊場があり、観音菩薩像などの石像が立てられています。
平成23年8月23日 平成23年8月24日 平成23年8月24日
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