準西国稲毛三十三観音霊場  第一番~第九番
 
第一番 第二番 第三番
稲毛山 広福寺 萬休山 観音寺 南嶺山 香林寺
聖観世音菩薩 正観世音菩薩 十一面観世音菩薩
承和四年(837年)、開基は狛江郷の刑部真刀自が広主(広福長者)の為に発願供養、広福之寺(続後紀承和十一年紀)。
鎌倉時代は稲毛重成の館となる。
重成の妻は北条時政の娘で、頼朝の妻・政子の実妹。建久六年(1195年)、病死。重成は悲しみに堪えず入道し、邸内広福寺を氏寺とし、長弁阿闍梨を請し寺を中興す。

8時半に着いてしまいましたが、無理やり?ご朱印を頂いちゃいました。
開山開基詳らかならず、伝に、昔、萬休とう山伏あり濃州の産まれにて、寛永代に久しく相州鎌倉に住せし後、当村に来て草庵を結んで住し福聚院と号せしという。

萬休の遷化の年代は伝わらず。

8時45分着、まだ準備の最中でした。
観音様の扉は閉じられたまま、読経しているとご住職が開けて下さいました。
(隣で奥さんが「まだお経を挙げてなのに開けたらだめでしょ!」って・・・)
大永五年(1525年)南樹法泉和尚によって開山され、臨済宗建長寺派に属している。
御本尊十一面観世音菩薩については木版で印刷された略縁起に宝亀七年(776年)弘法大師作であることが記されている。
この御尊像は因幡国高草郡清水長者が家の守り本尊として深く信心していたということである。

立派な五重塔があります。

間違ってお寺さんの横の道を車で上がってしまい四苦八苦、ちょっと擦ってしまいました(ーー;)。
平成26年04月12日 平成26年04月12日 平成26年04月12日
 第四番 第五番 第六番
仙谷山 寿福寺 雲騰山 妙覚寺 無量山 観音寺
十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
縁起に拠れば、創立は推古天皇六年(598年)と言われるが、古来度々兵火に遭って荒廃することが甚だしかった。
永徳年中(1381~1384年)、天台宗であったのを臨済宗に改宗。

番外・玉林寺さんを打ってからの参拝です。

見覚えがあると思ったら、多摩川三十四観音霊場の一番札所でした、こちらも総開帳中です。
往時は足利義晴公建立の仏刹であったが、一時荒廃していたのを、慶長年間(1596~1615年)加藤太郎左衛門再興して菩提寺となす(万松院殿贈一品左相府曄山大禅定門の法名)。
中興開山は揚雲法讃和尚(寿福寺六世)で永禄四年(1561年)の中興。

多摩川三十四観音霊場の二十二番札所。
すごい暑さの中歩いて、ぼろぼろになってたどり着いたのを思い出しました。
開基は、江戸時代の寛文八年(1668年)法印良田と言い伝えられる。
現住職は第十八世博文で、十六世文成和尚は東京の常楽寺より来山し、しばらく無住であった寺を再興。

多摩川三十四観音霊場の六番札所。

別格・よみうりランド観音を打ってからの参拝です。
ナビの示した道は狭くて通れず、引き返すのに苦労しました。
平成26年04月12日 平成26年04月12日 平成26年04月12日
第七番 第八番 第九番
雁三山 常照寺 青龍山 龍巌寺 法言山 安立寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 正観世音菩薩
応仁二年(1468年)秋、房州、州の崎の海中より尊像を発見したと伝えられている。
その後、数世を経て江戸六本木の鎌倉屋の太兵衛という者が、累代尊崇していたが、に宝永五年(1708年)、当寺に尊像を寄進した。

ナビの調子が悪かったのか、川の反対側に誘導されてしまいうろうろと。。。
探し出すのに30分程かかってしまいました。。。

多摩川三十四観音霊場の七番札所。
創立は、今から約750年前鎌倉時代と伝えられているが、たび重なる火災や、多摩川の水害等により文献の多くを失っている。
天正元年(1573年)3月に東叡山寛永寺の開基・天海大僧正の弟子、實海僧正が中興開山として堂宇を再建したことが明らかにされています。

観音堂の隣が幼稚園になっています。
前回来た時には賑やかでしたが今日はとても静かでした。

多摩川三十四観音霊場の十五番札所。
本尊は慶安年間(1648~1652年)、所の長者・鈴木兵五郎氏が長尾に居を移し、小山を開いて路を造り、いわゆる雪ヶ坂なるものを造成したが、その際、土中より出現した御丈一寸八分の正観世音菩薩御尊像であります。

とても小さな観音様です。

外で読経をしていると、「中へどうぞ」と言うことで本堂に挙がり拝ませて頂きました。
平成26年04月12日 平成26年04月12日 平成26年04月12日
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