準西国稲毛三十三観音霊場  第十番~第十八番
 
第十番 第十一番 第十二番
清水山 盛源寺 長澤山 秋月院 壽栄山 福王寺
聖観世音菩薩 準堤観世音菩薩 十一面観世音菩薩
安政六年(1859年)7月の大火で堂宇は灰燼に帰し記録を失う。
観音堂は、往時門前にあったが、再三の移築を経て現在本堂前に移る。
本尊の聖観世音菩薩は、下総国藤原野の砂中より出現の尊像で、鴛鴦沼の長谷寺にあったものを、同寺の廃寺に伴い、当山に移し安置したと伝えられる。尊像は室町中期の作。

ナビで裏の駐車場に着いていまったので、山門まで戻ってお参りです。
開創は天正元年(1573年)、開山 石岑全牛大和尚(円福寺五世・東泉寺二世、法道寺・広慶寺開山)

開基は小田原北条氏家臣・片山図書具治。
開基、片山図書具治夫妻の法名から一字ずつ取り、「秋・月」院と名付けたと伝える。

ここまで予定より結構時間がかかってしまって、若干焦り気味、写真もあまり撮って無かったみたいです。。。
室町時代、臨済宗鎌倉円覚寺・第三十七世梅林霊竹禅師により鎌倉の地に開創されたが、享保十六年(1731年)、時の住職・石隠和尚により現在地に移し再興された。

真言宗であったが、古文書によると享保十六年(1721年)、時の地頭・夢存翁は、陣屋屋敷をそのまま本堂に改築し、自分の守り本尊十一面観世音菩薩を安置、その頃より臨済宗に変わったものとみられる。
平成26年04月12日 平成26年04月12日 平成26年04月12日
 第十三番 第十四番 第十五番
諏訪山 観音寺 南林山 蓮花寺 長唱山 蓮乗院
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 準堤観世音菩薩
開基は五大院の先徳、顕密の博士と称せられた安然尊者と伝えられている。

また信濃国諏訪僧・堯観上人が、山田の澤に霊地を求め、大樹の根本に草庵を結んだのが始まりと伝えられる。上人は、諏訪明神の像を彫刻し、その体内に御丈六寸五分の聖観音像を刻んで納めたのが現本尊と言われている。

山門を潜って石段を登ったところが本堂です。
開基は貞観七年(865年)寂・常暁法師と伝える。中興開山は永享元年(1429年)寂・頼意法印。

札所の対象となる観世音は本尊とは別で、『新編武蔵風土記』に伝える「久末村字芋の谷と小貝谷との間なる丘上に三間四方の観音堂あり。
本尊聖観世音座像長五寸ばかり。作知れず。蓮花寺持ち」と。この堂が慶応年間に廃堂となり当寺に合祀された。

本堂左手の観音様にもお手綱が結ばれています。
真言密教伝燈阿闍梨・浄蓮坊得蔵法印(寛文元年(16617年)8月7日寂)により開創されたが、旧本堂・旧本尊(薬師如来立像)は戦災により焼失。

有縁の檀信徒の助勢により昭和31年(1956年)に本堂再建、以後、境内諸堂宇等の整備・復興が果たされつつ、今日に至っている。

本堂手前のスペースに駐車しましたが、奥に駐車場があったようです。
平成26年04月12日 平成26年04月12日 平成26年04月12日
第十六番 第十七番 第十八番 
星王山 能満寺 寶林山 泉澤寺 龍宿山 西明寺
聖観世音菩薩 正観世音菩薩 十一面観世音菩薩
安年間(857~859年)慈覚大師が野川の影向寺塔頭十二坊を再建したときは、その一坊として同地の「りょうけ」にあったが、天文年間(1532~1555年)当地に移り、快賢法印により開かれたと伝えられている。

中興開山は観空法印で正徳4年(1714年)5月15日寂と記されている。現在の本堂は元文4年(1739年)に建て替えられたものである。
延徳三年(1491年)武蔵国世田谷領主・吉良頼高の菩提寺として、武蔵国多摩郡烏山(東京都世田谷区)に創建された。

その後、災禍により焼失し、天文十八年(1549年)吉良家七代の領主・頼康が現在地に吉良家の菩提寺として移転再建した。
聖武天皇(在位724~749年)の勅願所であった養護寺(影向寺)の三寺九院の一寺として有馬にあった。
鎌倉時代には、源義経が東国に行く途中、当寺に宿泊し、住していた尼僧のために、部下の持田氏を残し、当寺を守護させたという。
江戸時代の文書によれば、弘長年間(1261~1264年)の開基とあり、また北条時頼公が中興開山といわれる。

想像していたより大きなお寺さんでした。
平成26年04月12日 平成26年04月13日 平成26年04月13日
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