准西国稲毛三十三観音霊場  第十九番~第二十七番
 
第十九番 第二十番 第二十一番
白王山 正福寺 諏訪山 明王院 富鳳山 養周院
正観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
多摩川に近かったためか、水難多く旱損は無しと『武蔵風土記』に記されているが、建立由来は不明である。
堂内には、準西国稲毛三十三札所観音霊場が開かれた当時の宝暦十三年(1763年)初秋、霊場生みの親・山田平七翁が奉納した縦30センチ、横40センチほどの白木に墨字で書かれた平七翁自筆のご詠歌の額が残っている。

祀られている観音様は2体、1体は新たに作成したものだそうです。
慶長年間の創建で円能寺と称し、大日如来を本尊としていた。

寛永十二年(1635年)、時の住職・尊賀阿闍梨が自ら不動尊像を彫像し、その胎内に諏訪左近頼久(信州諏訪氏の一族。慶長十五年(1610年)没。その墓石は当寺にある墓石中最古)の兜についていた不動尊像を収めた。
天正十年(1582年)、久地川辺伊勢宮川原に川辺伊賀守伊右衛門(吉祥院殿源川本覚徹山大居士)を開基として創建され、下作延円福寺四世吉山瑞琢大和尚が開山である。

旧記によれば、五間半の本堂、八間半の客殿に観音堂、地蔵堂、鐘楼の諸堂があって、伽藍の偉容を誇っていたが、文久三年(1863年)多摩川の氾濫によって諸堂宇流失し、久地中新田耕地の現在の場所に移し再建した。
平成26年04月13日 平成26年04月13日 平成26年04月13日
 第二十二番 第二十三番 第二十四番
光照山 大蓮寺 茂岳山 増幅寺 無量山 養福寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 正観世音菩薩
皇四十五代聖武天皇の勅を蒙り東国巡化をされた行基菩薩が当地に至り、たまたま流行していた疫病に苦しむ患者を救わんがため錫を留め、大日如来を彫刻したところ、たちまち病災消除し村人ことごとくが安堵したという。そこで菩薩は将来のためにと草堂を創建し、大日如来像をまつって光明山照曜院大蓮寺と号したことに始まる。

その後、暴風雨によって裏山が崩れ、堂宇は埋没したが、大日如来像は東方十間余の所へ生身の如く難を避けた。
村民は、仮堂を現在地に建て、尊像をまつり、寛永二年(1625年)本堂を再建し、地頭長坂権七郎が開基となって、天台宗を浄土宗に改め、明誉聞能和尚を開山に迎えた。
増福寺開山、開基は詳らかでないが、観音堂については、増福寺延命地蔵尊縁起の中に

武州橘樹郡末長村に安置奉る所の、地蔵尊おおけなくも弘法大師一刀三礼の御作也
聖観世音菩薩は御丈三尺、伝聖徳太子御作とされ、境内 観音堂(南向 四間四方)に安置されている。
観音堂はもと寺の裏山にあった。
昔老の話によると、堂守りの尼僧がいたが、寄る年波に管理も思うにまかせず、お堂も朽ち果てて、本観世音菩薩の安置もおぼつかなくなったので今から約230年前に、新作村の村人達は相談の結果、養福寺の閻魔堂に安置されることになった。
平成26年04月13日 平成26年04月13日 平成26年04月13日
第二十五番 第二十六番 第二十七番 
千手堂 平栄山 泉福寺 赤城山 延命寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
山田平七翁ご発願時には、泉福寺所属の山林のふもと道路に面し観音堂が建立され、泉福寺の境外堂宇であった。
天保の頃、ご本尊は泉福寺に遷座され千手堂が建立されて札所となり、現在は第二十六番聖観世音菩薩と共に札所を分け合っている。
泉福寺は天台宗に属し、開基は不詳であるが智賢法印(永正二年(1505年)4月28日寂)によって中興された寺である。
本札所は山田平七翁ご発願時には旧大山街道の馬絹村小台坂のほとりに在る柴原氏の庭内にあった。

年代は不詳であるが堂宇の炎上により、柴原氏は本堂を泉福寺に納めた。

現在は第二十五番千手観世音と一つの堂宇に安置されている。
文禄四乙未年(1595年)泉海和尚を開山として妙覚院と号していた。
その後釈迦堂橋の辺にあった釈迦堂を天和元乙卯年(1615年)に今の地に移し一の坊としたと伝えられている。

一寺となったのは、第五世栄賢法印の時代で、古来より当地に清泉があって、その名を延命水と言われている故事より、妙覚院赤城山延命寺と称するようになり、本尊に地蔵菩薩をまつる。
平成26年04月13日 平成26年04月13日 平成26年04月13日
観音霊場の旅トップに戻る 第二十八番~第三十三番へ