皇四十五代聖武天皇の勅を蒙り東国巡化をされた行基菩薩が当地に至り、たまたま流行していた疫病に苦しむ患者を救わんがため錫を留め、大日如来を彫刻したところ、たちまち病災消除し村人ことごとくが安堵したという。そこで菩薩は将来のためにと草堂を創建し、大日如来像をまつって光明山照曜院大蓮寺と号したことに始まる。
その後、暴風雨によって裏山が崩れ、堂宇は埋没したが、大日如来像は東方十間余の所へ生身の如く難を避けた。
村民は、仮堂を現在地に建て、尊像をまつり、寛永二年(1625年)本堂を再建し、地頭長坂権七郎が開基となって、天台宗を浄土宗に改め、明誉聞能和尚を開山に迎えた。 |
増福寺開山、開基は詳らかでないが、観音堂については、増福寺延命地蔵尊縁起の中に
武州橘樹郡末長村に安置奉る所の、地蔵尊おおけなくも弘法大師一刀三礼の御作也
聖観世音菩薩は御丈三尺、伝聖徳太子御作とされ、境内 観音堂(南向 四間四方)に安置されている。 |
観音堂はもと寺の裏山にあった。
昔老の話によると、堂守りの尼僧がいたが、寄る年波に管理も思うにまかせず、お堂も朽ち果てて、本観世音菩薩の安置もおぼつかなくなったので今から約230年前に、新作村の村人達は相談の結果、養福寺の閻魔堂に安置されることになった。
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