享禄三年(1530年)岡崎城主・松平清康元旦の暁、公左手の内に是の字を握ると夢見相者に吉凶を占はしむれどその意を得ず、時に大徳の聞ある大沢の龍渓院輪番模外惟俊和尚に問われ、師曰く「この夢甚だ吉なり是の字を分析すれば日下人也。日下人を掌握するは即ち天下の主なり、天下を掌握すること公の一世にあらざれば必ず子か孫にあらん事疑いなし」と。
清康公大いに喜び、興国海運祈願の為一寺を創建し禅師を請して開山第一祖とし、寺号を龍海院と称し龍の字に因み山の形に相擬し満珠山と号し世に之を是の字寺という。
御脇の聖観世音菩薩の御尊像は行基菩薩の御作と伝えられる東照公と因縁ある立像なり。 |
寿永の頃(1182~84年)源義経公が、浄瑠璃姫菩提のために七堂伽藍具備の大寺を建立し、妙大寺と号した。
その伽藍は度々兵火に遇い、一時廃頽し、明大寺の一字でありし旧跡に草庵を結び、御本尊に十一面観世音菩薩木彫り坐像を安置された。
その御本尊々像は義経公の念持仏で、後、浄瑠璃姫に譲られ姫の死後、ここに納められたと伝えられる。
永享十一年(1439年)当国六名の影山城主、成瀬大蔵佐国平公が御母君追善のために、学徳兼備の高僧、龍澤永源禅師を懇請して、安心院の御開山とせられた。
開基成瀬公は、以来諸堂建立を発願せられ、文安五年(1448年)に落慶し入仏供養の際に、御開山龍澤禅師が釈迦牟尼如来坐像の開眼をされ、御前立本尊として納められた。 |
本尊千手観世音菩薩は金銅製御丈五寸二分の座像にして、弘法大師御作とも行基菩薩の御作とも伝えられる。
元は本村縁盛寺(天台宗)の本尊なりしも同寺浄土真宗に改宗さられた時別祠された。
天文十一年(1542年)領主多門越中重信の子、伝十郎重正が手足不自由の病気になり、この本尊を厚く信仰したところ霊験あらたかに、病気は全快した。
永禄年中(1558~70年)本田平八郎に従い数度の合戦に抜群の功を立て子孫又永く栄えて徳川末期まで毎月参詣された。
その後、幾多の変遷あって慈称尼以来尼寺に仕えて天保2年(1831年)往生された。 |