三河三十三観音霊場   第一番~第九番
 
第一番 第二番
白雲山 寶福寺 佛現山 善徳院 随念寺
白雲聖観世音菩薩 千手観世音菩薩
真盛法師の開基により、往古天台宗に属し、投町にあったと伝えられる。

天正十九年(1591年)に岡崎城主田中吉政の城下整備により没却せらるに至ったが、2年後の文禄二年(1593年)春、中興開基繁林玄茂和尚が、現在地に伽藍を復興し禅宗に改めた。

 慶長六年(1601年.関ヶ原の戦いの翌年)徳川家康より寺領2石の寄付状を下され、八代将軍吉宗の時代享保十三年(1728年)竜海院19世絶方癡学和尚により伽藍を再興整備し法池開山となる。

車の場合、お寺さんの入口から境内まで一気に登って下さい。
松平三河第七代・世良田次郎三郎源清康公三河守、天文四年(1535年)12月尾張守山に出陣するも、不慮の死をとげ、歳は僅かに25才、当寺の境内へ密かに遺骸を運び荼毘に葬る。

 後27年、清康公妹久子姫、永禄四年(1561年)岡崎城中にて逝去され、遺言により兄清康公の傍に遺骨を納め宝篋印塔を建立した。

両廟の菩提供養のため一寺を永禄五年(1562年)、神君家康公21才にて御創建された。

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平成22年2月3日 平成22年2月3日
第三番  第四番
成道山 松安院 大樹寺 見松山 觀音寺
如意輪観世音菩薩 南無十一面観世音菩薩
松平四代親忠公が、勢誉愚底上人を開山として文明七年(1467年)創建、代々松平氏及その子孫の徳川将軍家の菩提寺である。

 家康公(松平九代目)は岡崎城に生まれ、永禄三年(1560年)今川義元公の命を受け大高城にあり、桶狭間の合戦にて義元戦死、家康は夜に乗じて18人の家来と共に大樹寺に逃げ込み、住職十三代登誉上人の教訓により「厭離穢土欣求浄土」(えんりえどごんぐじょうど)の念仏の信によって更生の心で出直しをしたのが大樹寺で、以後如何なる戦争にもこの八文字を旗印として赴いた。
 家康公遺言にて「位牌は大樹寺に祀るべき事」とあり、その位牌と木像を安置、代々松平及び14代将軍までの位牌が安祀されている。

節分の日で賑わっていました。
寺記によれば神亀三年(726年)行基の開創、永正年間(1504~21年)松平和泉守信光の八男次郎右衛門光親が堂宇を再建し観音寺と号し、以来光親の子孫代々の祈願所とした。

 天文二年(1533年)火災に遭い、本尊のみを残して消失、同年光親の孫次郎右衛門重吉が草堂を建立し、天正五年(1577年)重勝により本堂を建築し、次いで慶長2年(1597年)に客殿、庫裡を造営した。
 正保三年(1646年)本郡滝村東照権現遷宮の時、重勝の子勝隆は先祖の遺跡を尋ねて当寺に参詣した。
慶安元年(1648年)将軍家光により寺領五石を朱印に改められた。


 元禄十六年(1703年)竜海院16代香海智定は、客殿及び庫裡を造立し、宝永二年(1705年)当寺に隠居した。これより竜海院の末寺に属し香海をもって中興開山としている。
平成22年2月3日 平成22年2月3日
第五番 第六番
能見山 瑞雲院 松應寺 浄誓院 
(松本観音)
聖観世音菩薩
十一面観世音菩薩
永禄三年(1560年)徳川家康公が父君松平広忠菩提のために創建、開山は隣誉月光底鈍和尚である。
 天文十八年(1549)岡崎城主松平広忠は城中にて逝去、喪を秘して能見ヶ原の月光庵に密葬した。時に一子竹千代は人質として尾張にあったが、同年岡崎に帰るや直ちに月光庵に参り、父広忠の墓を拝し墓上に小松一株を植えて、松平一族の繁栄を祈願した。
 永禄3年(1560年)松平元康は岡崎城主となり、月光庵の地に父君菩提のため一寺を建立した。

天文十八年(1549年)手植えし墓上の松の枝は東方に生長するのを見て、我が祈念に応ずる松なりと松応寺と名づけた。

 慶長七年(1602年)家康公は朱印百石を寄進、同十年(1605年)広忠57回忌にあたり廟所、拝殿、本堂、庫裡などを建立した。寛永十年(1633年)には家光公により仏殿、鐘楼、山門などを造営し、歴代将軍の参詣があった。
慶安三年(1650年)佐口四郎兵衛が父久喜の菩提のために建立した寺である。

浄誓とは父久喜の法名といわれる。

 本尊阿弥陀如来は運慶の作と伝えられています。

 御前立に十一面観世音菩薩が奉安されている。

 昭和20年(1945年)戦災で焼失したが、荒井山九品院住職宏誉超山上人の初願による托鉢の浄財で、昭和27年(1952年)現在の堂宇が再建された。
平成22年2月3日 平成22年2月3日
第七番 第八番 第九番
満珠山 龍海院 是字寺 金寶山 安心院 大平山 観音寺
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩
享禄三年(1530年)岡崎城主・松平清康元旦の暁、公左手の内に是の字を握ると夢見相者に吉凶を占はしむれどその意を得ず、時に大徳の聞ある大沢の龍渓院輪番模外惟俊和尚に問われ、師曰く「この夢甚だ吉なり是の字を分析すれば日下人也。日下人を掌握するは即ち天下の主なり、天下を掌握すること公の一世にあらざれば必ず子か孫にあらん事疑いなし」と。

 清康公大いに喜び、興国海運祈願の為一寺を創建し禅師を請して開山第一祖とし、寺号を龍海院と称し龍の字に因み山の形に相擬し満珠山と号し世に之を是の字寺という。

 御脇の聖観世音菩薩の御尊像は行基菩薩の御作と伝えられる東照公と因縁ある立像なり。
寿永の頃(1182~84年)源義経公が、浄瑠璃姫菩提のために七堂伽藍具備の大寺を建立し、妙大寺と号した。

 その伽藍は度々兵火に遇い、一時廃頽し、明大寺の一字でありし旧跡に草庵を結び、御本尊に十一面観世音菩薩木彫り坐像を安置された。
その御本尊々像は義経公の念持仏で、後、浄瑠璃姫に譲られ姫の死後、ここに納められたと伝えられる。


 永享十一年(1439年)当国六名の影山城主、成瀬大蔵佐国平公が御母君追善のために、学徳兼備の高僧、龍澤永源禅師を懇請して、安心院の御開山とせられた。

 開基成瀬公は、以来諸堂建立を発願せられ、文安五年(1448年)に落慶し入仏供養の際に、御開山龍澤禅師が釈迦牟尼如来坐像の開眼をされ、御前立本尊として納められた。
本尊千手観世音菩薩は金銅製御丈五寸二分の座像にして、弘法大師御作とも行基菩薩の御作とも伝えられる。

元は本村縁盛寺(天台宗)の本尊なりしも同寺浄土真宗に改宗さられた時別祠された。

 天文十一年(1542年)領主多門越中重信の子、伝十郎重正が手足不自由の病気になり、この本尊を厚く信仰したところ霊験あらたかに、病気は全快した。

 永禄年中(1558~70年)本田平八郎に従い数度の合戦に抜群の功を立て子孫又永く栄えて徳川末期まで毎月参詣された。
その後、幾多の変遷あって慈称尼以来尼寺に仕えて天保2年(1831年)往生された。
平成22年2月3日 平成22年2月3日 平成22年2月3日
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