第十番 |
第十一番 |
大嵓山 徳性寺 |
黄梅山 渭信寺 |
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聖観世音菩薩 |
十一面観世音菩薩 |
第12番法蔵寺の末寺。
開山は慶長十六年(1611年)法蔵寺第11代長翁教安上人が、山中郷市場村に堂宇を建立し徳性寺と号した。
安置される聖観世音菩薩は、その昔、当山の住職の夢枕に観音様がおたちになり、ここより南西の地に荒れた堂宇があり、われその地にありとの事であったので住職は驚き、その地を訪ね堂宇の本寺住職にお願いして当山に移した。
江戸時代正徳四年(1714年)宿場の人々に大火事を知らせた白狐を祭神とした徳性寺稲荷があります。
写真をクリックすると観音様が見れます。 |
当寺に安置される十一面観世音菩薩は、加州の城主前田利家公の御守本尊です。
仏師運慶の御作として世のまれなる霊仏です。
ある時、前田家一門の前田利国公が難病にかかり、医薬など色々手をつくしたがいっこうに治癒せず、今や神仏のご加護しかないと観音様に御祈念を続けたところ、ある夜、夢のお告げに観音様から薬の名をつげられた。 その薬を用いたところ21日で難病は治癒したという。
その後、慶安年中頃(1648~52年)、当時御開山伊勢官御菩提寺に御住職のおり、智燈照玄和尚がご隠居されるときに、この尊像をもらい受け当寺に安置されましたのが、当寺の始まりとされます。 |
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平成23年2月3日 |
平成23年2月3日 |
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第十二番 |
第十三番 |
大神光 二村山 法藏寺 |
龍臺山 天桂院 |
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聖観世音菩薩 |
千手観世音菩薩 |
当山は行基菩薩34歳の時諸国行脚の途中、当山峯に霊木有るを知り是によって観音像を刻み持統天皇の勅命に依り安産祈願を修行し、後、大宝元年(701年)文武天皇が一宇を建立し出生寺とした。
中間弘法大師来て諸堂を改修し、六角堂を建立真言道場とした。
後に松平親氏は三河を平定し、当山に来て宗を浄土に改め名を法蔵寺となし阿弥陀仏を本尊となし、代々松平家の寺と定めた。
当山七代教翁大和尚は松平広忠の兄、家康の伯父で、家康幼少の時この寺において養育され学問手習いを修得した。 |
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当山は三州岩津城主松平信光の嫡男松平守家の菩提のため、永正九年(1512年)一寺を建立し龍台院と号したのが始まりです。
渥美郡大久保村(田原)の長興寺四世模外惟俊禅師を勧請し、同禅師は開山第一世です。
天正十七年(1589年)松平家清公武州八幡山に国替えと共に当寺も移転した。慶長六年(1601年)三州吉田城三万石に封ぜらるるや又ここに移る。
慶長十七年(1612年)八代玄蕃頭清昌公西の蒲郡形(現蒲郡市)に移封当山も移り龍台山天桂院と改称今日に至っています。
本尊千手観音は貴船観音と拝め、縁結び学業成就などの霊験あらたかに数々の不思議もあって、多くの人に信仰されています。 |
平成23年2月3日 |
平成23年2月3日 |
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第十四番 |
第十五番 |
巌松山 全久院 善應寺 |
南海山 永向寺 |
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聖観世音菩薩 |
百體観世音菩薩 |
当山は後花園天皇長禄三年(1459年)釈氏慶順により開創され、巌松山全久院善応寺と号します。
本尊は弥陀の三尊にして弘願他力の大法を宣揚する道場として建立されました。
徳川時代には畑一斗三升の除地黒印あり。
境内地356坪檀信徒約300戸です。
寺伝に八世義香和尚観世音菩薩の霊夢を感じ、一刀三礼の尊像を彫刻して念持仏としたという。
現在、三河三十三観音札所十四番として遠近より参拝するもの即ちこの尊像です。 |
当山は人王107代正親町院御宇天正二年(1574年)に照峯恵舜大徳により創建されました。
本堂は享保十八年(1733年)に建立し、棟梁藤原氏、天上久保村岡田五エ門、塗師岡崎小エ門、瓦師伊勢山田常明寺町小林仁兵衛仁六勝と瓦に彫字があります。
昭和47年(1972年)本堂屋根葺き替え施行し現在に至っております。
駐車場は山門前に数台程度、山門から境内に入って駐車も出来ますが入口は少し狭いです。 |
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平成23年2月3日 |
平成23年2月3日 |
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第十六番 |
第十七番 |
上野山 利生院 |
海性山 眞如寺 |
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聖観世音菩薩
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子安観世音菩薩 |
当所形原の後領主、松平紀伊守、源家忠公の城中守護の観世音なりしが、お国替えの折り霊夢によって天正17年(1589年)一宇を建立して尊像を安置し当山開基智厳法印にふぞくしたまいてより、代々の住僧ご宝前において天下泰平国家安穏を祈りたてまつるゆえに智厳の観音と称したてまつるなり。
本尊、聖観世音菩薩は聖武天皇ご帰依のあまり行基菩薩一刀三礼のお作にて三河国三十三所霊場の随一です。
境内にいると正面が観音堂、右手に本堂・庫裡があります。
小高い丘の上にあり三河湾の眺めも綺麗です。 |
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~1017年頃、源信僧都の創建。
源信(げんしん)は、平安時代中期の天台宗の僧で ある。「恵心僧都」(えしんそうず)と尊称される。 浄土真宗では、七高僧の第六祖と され「源信和尚」・「源信大師」と尊称される。
当寺は往昔佐久島の西にあり高潮のために境内建物など悉皆流失。
応仁元年(1467年)幡豆郡山口の郷者一王子社側へ移転、その後山口にて殿堂什器悉皆消失、依って現在地に移転する。
札所本尊・子安観世音菩薩は、伝教大師より慈覚大師に伝え大師より後醍醐天皇に奉る天皇より昌泰2年(699年)末、権中納言藤原義氏に賜る。
当国下向捧持、後当山に安置さる藤原氏末、牧原又兵衛現存す。 |
平成23年2月3日 |
平成23年2月3日 |
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第十八番 |
圓通山 補蛇寺 |
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馬頭観世音菩薩 |
神亀3年(726年)に建立、行基作の馬頭観世音菩薩を祀ると伝えられる。
当初は補蛇山・圓通寺と称したようです。
応仁の大乱に遇い諸堂の殆どを焼失するも観世音の霊像はその難をのがれる。
元和12年(1617年)暉堂宗慧禅師を開山に奉じて山号を寺号とし曹洞宗圓通山補陀寺と号す。
馬頭観世音菩薩は三面六臂形、頭上に馬頭を拭き体躯は細く榧(かや)の木一本造りで、平安時代の作です。
平安時代の馬頭観音像は全国でも珍しいそうです。
寺宝の木像薬師如来立像、木像馬頭観音立像は、愛知県の文化財に指定されていす。 |
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平成23年2月4日 |
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