美濃西国三十三観音霊場   第一番~第九番
 
第一番 第二番 第三番
大日山 日龍峰寺 盧山 鹿苑寺 長栄山 来昌寺
千手千眼観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
寺伝によると、仁徳天皇の御代、飛騨の国・須賀の岩窟より出生した異人・両面宿儺が天皇に拝謁しての途次、当地に創建したとのことのようです。

両面宿儺とは、顔が二つに腕が四つという異人だとのことです。

本尊は立像で103センチ、台座が40センチ、室町時代の作との説。

専用の納経帖は本堂に置いてあります。
寺伝によると、安元二年(1175年)の創建、中国より帰国した覚阿上人が、この地が抗州長鷹の江岸に似ていることから鷹山大慈院を興したのが始まりとのことです。

その後、貞亭四年(1687年)、清泰寺六世密厳和尚が再建、さらに一宇を建立して鹿苑寺と号したとあります。

本堂天井の龍に思わずシャッターを押してしまいました。
寺伝によると、天正二年(1574年)法空和尚が古城山麓の蓮華谷に堂宇を創建、当初は清光山蓮華院淨円寺と号して念仏弘通の道場として栄えたそうです。

享保二年(1717年)七世隆芳和尚の代に現在地に移転、長栄山来昌寺と改号したとあります。
平成24年8月12日 平成24年8月12日 平成24年8月12日
 第四番 第五番 第六番
金毘羅山 宝勝院 景久山 永昌寺 尾崎山 恵利寺
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩
慶長年間(1596~1615年)、領主金森長近が美濃和紙の振興を図り、長良川畔に上有知溙を開いた時、水運の安全を図り讃岐より金毘羅大権現の御分霊を迎え、さらに聖観音を合祀して守護仏に崇めたのが近世の金勝院とのことです。

住古から美濃地方の修験者に護持されてきたが、堂宇は再度の火災にみまわれて確かな記録は残されていないそうです。
承応元年(1652年)、村人の懇願により観音堂を建立。
本尊に聖徳太子作とする十一面観世音菩薩を安置して智淵山浄水寺と号した。

永昌寺の前身は観音堂の堂守りが住まいする庵であったとのことです。

独翁禅師が当地に留錫して寺院に改修したのが創まりだそうです。
寺伝によると、天平年間(729~749年)、諸国行脚の僧・行基が帝の病気を感知し、この地に錫を留めて法華経を書写して納め、自ら刻む十一面観音像を安置して祈願されたとあります。

永録七年(1564年)、織田信長の美濃攻略の戦火に巻き込まれ、古記録類は焼失して縁記の詳細は定かではないそうです。
平成24年8月12日 平成24年8月12日 平成24年8月12日
第七番 第八番 第九番
臨済山 龍福寺 龍王山 三光寺 富士山 東光寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
永録七年(1564年)、恩田右馬尉吉久が花厳院(龍田院)と称した古刹を再興し広見郷の長春寺より高安和尚を迎えて開山。

正保元年(1644年)、秀国和尚の代に堂宇を復興して龍福寺と寺号を改めたとあります。
寺伝によると、大同年間(806~810年)、弘法大師が山紫水明の地に感じて密教東漸を念じて密法を厳修されたのがはじまりという。

明歴年間(1655~1658年)、春長律師が荒廃を惜しみ再興を図った。

宝永元年(1704年)、京都醍醐三宝院門跡より法末の令旨を賜り、同六年に戒龍阿闍梨を招請し中興開山としたとあります。
文亀年間(1501~1504年)、希雲楚見和尚が創建、東陽英朝禅師を請して開山とあります。

妙心寺の聖沢派に属すそうです。

境内は手入れが行き届いておりゆっくりと訪れたいお寺さんです。
平成24年8月12日 平成24年8月12日 平成24年8月13日
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