奥州三十三観音霊場  第十番〜第十八番
 
第十番 第十一番 第十二番
大嶽山 興福寺 香積山 天王寺 大非山 観音寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
こちらは「大獄観音」とも言い、奥州七観音の一つ。
寺伝によると、大同ニ年、坂上田村麻呂が勅命によって奥州平定あたり、首領の軍をこの山に攻め滅ぼし、戦死者の遺骸を七ヶ所に分散埋葬し、それぞれの場所に霊を弔うため観音堂を建立したという。

その一つがここ「大獄観音」。

とても温和なご住職さんでした。

こちらには洋風建築の6角堂もあります。
第三十一代・用明天皇の開基といわれる。

聖徳太子がこの地と大阪、谷中、富国の四ヶ所に寺を建立して四天王寺と名つけた。

観音堂への石段の右手には「ぼけ除け延寿観世音菩薩」が奉安されています。

観音堂は天正年間、伊達照宗の寄進により建立されたと伝えられる。

本日はお祭りだったそうで、伺った時はかたずけがほぼ終わったところでした。
観音寺は、宝治元年(1247年)、伊達家四代・高館城城主・政依が亡父義広公の菩提を弔うために建立した伊達五山の一つだそうです。

当時は天台宗であったが寛永十三年(1636年)、浄土宗に改宗した。

観音堂はこれよりも古く、大同年間(808〜809年)に坂上田村麻呂が奥州の蝦夷平定の際に建立したことに始まるという。
平成24年04月30日 平成24年04月29日 平成24年04月29日
 第十三番 第十四番 第十五番
明王山 大聖寺 法輪山 大慈寺 竹峯山 華足寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 馬頭観世音菩薩
本堂左手の石段を登ったとこるが観音堂です。

「常西寺観音」と称し、往時は補陀山常西寺と号する独立した寺だったそうです。

現在は大聖寺が別当寺として管理しています。

大聖寺の縁記は定かではないが寛永元年(1624年)に宥甚法印が再興し、後に保原の長谷寺の末寺となったそうです。
開創は嘉応年間(1169〜1170年)前後と推定される。

当時は天台宗で諏訪森大慈寺と号し藤原氏の時代は栄えたがやがて衰退し廃寺の状態となった。

永亭元年(1429年)曹洞宗東北大本山・正法寺四世の中山良用大和尚が隠居寺として入山し曹洞宗に改めた。

現在の本堂は昭和三十九年に再建されたもの。
観音堂は境内の石段を登ったところにあります。

現在の観音堂は伊達家八代・斉村の寄進によるものだそうです。

山門は寛成十一年(1799年)、伊達家九代・周村の寄進によるもの。

山門の入口側は危険なため立ち入り禁止となっていました。

奥州七観音の一つ。
平成24年04月29日 平成24年04月30日 平成24年04月30日
第十六番 第十七番 第十八番 
音羽山 清水寺 竜雲山 大祥寺 松沢山 六角堂
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩 如意輪観世音菩薩
開山は大同ニ年(807年)、一時は廃絶したが、京都智積院七世・運敞和尚により再興。

現在のご住職は仙台別院に住まわれていて、要事がある時しかこないそうです。

当日も不在でした、5月2日〜4日までは居るとのことでしたので結願後の5月3日に再度お伺いしご朱印を頂きました。

ガイドブックにはここも奥州七観音の一つと書いてありましたがこれだと数が合わない?。
開創当時は白龍山・岡寺と称する天台宗の寺であったが廃寺となり、天平九年(1354年)に月泉良印が再興開山となって寺号を改め、曹洞宗に属した。

月泉良印は曹洞宗奥州大本山・正法寺ニ世。

観音堂は本堂左手の丘の上にあり「西の峰の観音堂」と言われるそうです。

こちらは北国八十八ヵ所霊場の結願寺でもあるそうです。
天平年間(729〜749年)に茂呂志賀なる人が建立し、如意輪観音を安置したと伝えられる。

当初は東へ1qほどの観音森にあり、後に東へ200mの豊降神社境内に移転した。

さらに安永年間、皆川家の先祖により現在地に移された。

六角堂と言いますが実際は四角です。

このお堂は皆川氏が管理されており、建っている敷地も皆川氏の所のようです。
平成24年05月01日 平成24年05月01日 平成24年05月01日
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