第一番 |
第二番 |
日光山 清滝寺 |
鉢石山 観音寺 |
|
|
|
千手観世音菩薩 |
千手観世音菩薩 |
縁記については不詳、この寺は昔、坂東三十三観音霊場の第十八番・立木観音で知られる中禅寺の前立観音であった。
本堂入り口に「坂東十八番札所」と刻まれた門碑が建っている。
明治時代の廃物稀釈により廃寺になったが、足尾銅山採掘に本格的に着手した古河の日光進出によって町が復興し、それまで廃寺となっていた清滝寺と円通寺が合併して再興された。
日光ですが、ここは旧道にありますので車の往来も少なく静かなところです。 |
寺伝によれば、弘仁十一年(820年)、弘法大師が千手観音像を自ら刻んで祀ったのが始まりという。
寛永四年(1627年)、天海大僧正から「鉢石山無量院観音寺」を与えられ、このとき天台宗に改宗した。
裏手の龍尾山には本来の観音堂があり、もとはここに千手観音像が安置されていた。
今は年一回(8月9日)に現在安置されている本堂からこの御堂に御像を移して開帳される。 |
|
平成23年6月4日 |
平成23年6月4日 |
|
第三番 |
第四番 |
日光山本宮 四本龍寺 |
星顕山 如来寺 |
|
|
|
千手観世音菩薩 |
聖観世音菩薩 |
奈良時代末期、芳賀で生まれた勝道上人によって開かれた。
輪王寺に残る日光山縁記によると、天平神護二年(766年)、大谷川を渡った上人が東の空の雲が立ちのぼるを見て、ここに草庵を結んだとされる。
これが紫雲立寺、のちの四本龍寺である。
その後、大同二年(807年)に下野国司・橘利遠によって観音堂が建立され、本尊の千手観世音が安置された。
神橋から本宮神社へ登るとその裏手にひっそりとたたずんでいます。 |
文明年間(1469~87年)。暁誉上人が開創したと伝える。
江戸時代には近郷近在に七つの末寺を有し、寛永九年(1632年)、徳川三代将軍・家光の日光社参では御堂を造営して宿所となった。
二宮尊徳の葬儀も、ここで営みられたという。
以降の二度におよぶ火災によって堂宇や古記録が焼失し、現在の本堂や寺務所は、平成の大改修改修によって再建されたもの。
観音堂は山門を入って左手です。 |
|
平成23年6月4日 |
平成23年6月4日 |
|
第五番 |
岩戸山 観音院 佐貫観音 |
|
|
|
聖観世音菩薩 |
巨大な岩山に刻まれているのが佐貫観音。
巨岩は高さ約64m、この中央よりわずかに下から最下部にかけ、大日如来像が彫り込まれている。(写真右上が顔です)
像高18.2m、顔の長さは約3mの大きさだが、線刻が浅いこともあって探しだすのは結構大変。
像の右上には木戸があり、これは奥の院・大悲窟と呼ばれる小洞窟で、弘法大師の如意和など宝物が納められていると伝わる。 |
|
平成23年6月4日 |
|
第六番 |
第七番 |
鶏鳥山 円満寺 |
与楽山 観音寺
(寺山観音寺) |
|
|
|
如意輪観世音菩薩 |
千手観世音菩薩 |
寺の歴史に関する詳しい資料はほとんど残っていないが、本堂(焼失)は大永七年(1527年)の建立と伝わる。
一方、康平年間(1058~64年)に源頼義が高原山の南麓に一宇を建立して如意和観音を祀ったという説もある。
明治の廃仏令で廃寺となり、加えて昭和六十年の火災で堂宇と本尊を焼失、現在は近年に建立された小堂が建つのみである。
ご朱印は観音寺さんで頂きます。 |
寺伝によれば、神亀元年(724年)、行基菩薩が剣が峰のふもとに法相宗・法楽寺を建立したのが草創。
延暦二十二年(803年)の雷火によって焼失、観音堂と本尊は無事であったため、大同元年(806年)に徳一上人が現在地に再興したという。
最盛期には塩谷氏の祈願所として、また塩谷地方の中本山として十八の末寺を有した。
本尊・千手観音座像は、横に並ぶ毘沙門天立像、不動明王立像とともに国の重文指定を受けている。 |
|
平成23年6月4日 |
平成23年6月4日 |
|
第八番 |
第九番 |
補陀洛山 観音寺
(澤観音寺) |
龍頭山 龍泉寺 |
|
|
|
千手観世音菩薩 |
千手観世音菩薩 |
寺伝によると、永亭三年(1431年)、一キロほど西方のところ、現在の那須学園が建つ裏手の小字壇上から現在地に移築されたという。
寺域は、かつて那須与一の兄・満隆が築いたとされる沢村城後の一部。
千手観音像は秘仏、鎌倉時代の作と伝わる。
開帳は60年に一度、前回のご開帳は昭和60年とのことです。
本堂右手の新しい観音堂(本堂右手)の地下には沢山の石像があります。(写真右) |
|
寺伝によると、もとは小林邑(むら)(現在の中田原天神森付近)に創建された。
明応三年(1494年)に大田原資清によって移転され、以来、大田原氏の祈願所を兼ねた城中仏事諸関係指示寺になったという。
以前、札所には龍泉寺の末寺・慈眼寺があたっていたが、文政八年(1825年)の大火で焼失、のち明治の統廃寺で龍泉寺に統合された。
こちらは下野観音札所というよりも、北関東三十六不動尊霊場・第二十六番札所として巡拝に訪れる人が多いそうです。
地震で大変な被害を受けたそうで、修繕の最中でした。 |
平成23年6月4日 |
平成23年6月4日 |
|