下野三十三観音霊場  第十番~第十八番
 
第十番 第十一番
岩谷山 長泉寺
(岩谷観音)
滝尾山 大平寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
鎌倉時代、天台宗の寺であったという。

東比叡山寛永寺か比叡山延暦寺の末寺であったと推察されている。

江戸期に廃寺となったが、境内に残った観音堂が岩谷観音として親しまれたきた。
本尊の千手観音像は伝教大師・最澄の作といわれる。

参道の坂の落ち葉で車が登れず、バックしたら側溝にハマってしまいました。
参道入り口のお宅でご朱印を管理されていますので、車は置かせて頂いた方がよいかも。(;一_一)
伝承によれば、延暦二十二年(803年)、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の際に戦勝を祈願し、徳一大師の作と伝える本尊・千手観世音菩薩像を安置したことに始まる。

嘉祥元年(848年)、慈覚大師によって開基された。

近くには高さ20m、幅65mの名瀑・龍門の滝があります。

ご朱印は滝駅の裏手の一番奥の小堀様宅で頂けます。
平成23年6月4日 平成23年6月11日  
第十二番  第十三番 第十四番
大慈山 永徳寺 獨鈷山 西明寺 三光山 慈眼寺
千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩
弘仁六年(815年)、徳一大師が観音山の中腹に一宇を建立、堂内に自ら刻んだ千手観音像を安置し開山たという。

観音堂は総けやき造りで下野三十三札所の中では一、二の大きさを誇る。

慶長十年(1605年)、藤原義貞によって再建されたもので、堂宇の大きさは9.3m四方、昭和59年に大改修された。

立派な観音堂です。
縁記によると、天平九年(737年)、僧・行基が十一面観世音を安置したのが草創とあります。

延暦元年(782年)には一山十二坊を数えて隆盛を極めた。

以降、数度の火災によって諸堂の一部を焼失するも応永元年(1394年)、益子勝直によって堂宇が再建された。

坂東三十三観音札所の第二十番札所でもあります。
文和元年(1352年)、益子城主・紀仲之が建立し、仲之の伯父で真言宗本山において修業した、尊慶上人が開山したと残る。

天保十一年に本堂やそれまでの記録を焼失し、詳しいことはよく知られていない。

観音堂は永録年間(1560年頃)、赤羽宗重の建立と伝わるが、のち火災により焼失、嘉永五年(1852年)に再建された。
平成23年6月11日 平成23年6月11日 平成23年6月11日
第十五番 第十六番
大慈山 長命寺 滝海山 常珍寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
天安元年(857年)、慈覚大師がこの地方を布教に訪れた際、長命寺台と呼ばれた丘に道場を建てたことによる。

のち建久四年(1193年)、現在地に堂宇が建立された。

現在の本堂は昭和四十六年に再建されたもの。

観音堂には行基の作と伝わる聖観音菩薩を安置していが、山火事で焼失し、鎌倉時代に本尊と堂宇が再建された。

観音堂は寺門の手前、左側の石段を登ったところにあります。
天安二年(858年)、慈覚大師・円仁によって開かれた。

本堂には円仁、そして師であった天台宗の祖・最澄の肖像画が掲げられている。

観音堂に祀られる聖観世音は像高およそ52㎝、八幡太郎義家の守り本尊と伝えられる。

秘仏中の秘仏で開帳が許されるのは住職一代につき一日だけだそうです。

観音堂の右隣には菩提堂があり、その右手に本堂があります。
平成23年6月11日 平成23年6月11日
第十七番 第十八番
福寿海山 善願寺 玉生山 能延寺
如意輪観世音菩薩 千手観世音菩薩
寺伝によれば、延暦十五年(796年)、蝦夷討伐に向かう途中、坂上田村麻呂が霊夢によって池のほとりに草を結んで屋根を作り、如意和観音像を安置したのが始まりという。

のち陸奥を平定し、一宇と庵室を建立したと残る。

しかし、歳月とともに寺は衰退、数世紀後に観音像は池に埋もれた。

寿永四年(1185年)源平の乱を逃れこた京都・御室仁和寺の宮親王が池の中から観音像を見つけだす。

これを石の箱に納め、地下に安置した。
以降「御室観音」と称されるようになったという。

宇都宮駅から結構近いです。
寺伝によると、康平元年(1058年)、宇都宮城を築くにあたり、鬼門よけのため河内町下田原に創建されたのが始まりという。

その後、再三にわたって洪水にみまわれたため、宇都宮二十代城主・広綱の時代に現在地に移された。

御朱印三十石、末寺百八カ寺を有し、この地方の本山格だったといわれる。

本尊の千手観世音は、もとは能延寺の末寺・千手院に祀られていたが、明治初年に廃寺となり、以来本寺に納められた。

2階が本堂、1階が観音堂になっています。
 平成23年6月11日 平成23年6月11日 
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