下野三十三観音霊場  第十九番〜第二十七番
 
第十九番 第二十番 第二十一番
神護山 光明寺
(朝日観音)
穴穂山 普門寺
(茂原観音)
興生山 興生寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
縁記によると、大永元年(1521年)、二荒明神(現在の二荒山神社)市正・中里筑後守宗高によって創建されたと伝える。

以後、明治まで中里家の菩提寺となった。

のち天文三年(1534年)、十一世・盛翁啓繁大和尚によって開山したといわれる。

祀られる観音像は「朝日観音」と称される。
伝承によると、室町時代中期、この近くに住んでいた宇都宮氏の家居・裳原遠江が仏師に観音像を刻ませ、安置したのが始まりという。

現在の観音堂は江戸末期の建立と伝わるが、詳細な歴史はわかっていない。

観音像は身の丈およそ1.88m、秘仏であり60年ごとに開帳される。

現在、寺は無住。

地震の影響がまだ残っています。
代々壬生藩主の祈願所であった。

藩主が戦勝や安産などを願う祈願寺院として手厚く保護され、最盛期には三十二もの末寺を有していたという。

本堂は元録六(1693年)から六年がかりて再建されたという。

本堂左手に瑠璃殿があり、老朽化した観音堂が壊されたため、ここに聖観世音像と六観世音像が間借りしている。
平成23年6月11日 平成23年6月11日 平成23年6月11日
 第二十二番 第二十三番 第二十四番
医王山 玉塔院 伊吹山 善応寺
(観音堂)
三級山 近龍寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
第二十二番札所は、もとはこの近くの華厳寺であった。

だが華厳寺は明治三年の火災で諸堂を焼失、このとき勝道上人自刻の作といわれる十一面観音像を失ってしまった。

しかも三年後の廃仏稀釈で廃寺となってしまい、困った近隣の檀徒が玉塔院を頼ってきたという経緯が残されている。

そのとき、札所もここに受け継がれた。
土地の言い伝えによれば、大同年間の開基という。

明治初年に無住となり、加えて寺の書類を預かっていた総代の家が火災にあい、史料を焼失してしまったため、この寺の歴史は不明。

現在の観音堂は江戸時代初期に建立されたものではないかといわれる。

堂内の観音像は秘仏であったが、昭和になってから十二年に一度、午(うま)年に開帳することになった。
寺伝によると、応永二十八年(1421年)、良懐上人によって栃木城内の創建され、当初は称念寺と号した。

天正十六年(1588年)に皆川広照が栃木城を築いた際、現在地に移り、三級山天光院近龍寺と改めた。

その名の由来は、中国の故事「鯉が三級の位に達すると竜になる」とあること、また栃木が古くから鯉の町であったことからだという。

観音堂に安置される観音像は恵心作と伝わる。
写真は三仏堂です。
平成23年6月11日 平成23年6月18日 平成23年6月18日
第二十五番 第二十六番 第二十七番 
金峯山 如意輪寺 金龍山 清水寺 引地山 日向寺
如意輪観世音菩薩 千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
古文書によると、開基は天慶二年(939年)と伝えられる。

はじめ県南西部を治めていた藤原秀郷が大平山麓に釈迦尊寺として建立。

延徳二年(1490年)、宏祐上人によって現在地に移築され、その時寺号も金剛峯山東泉坊称徳院如意和寺と改められた。

天正十九年(1591年)には、徳川家康も立ち寄っている。
天平年間(729〜74年)、僧・行基によって開基されたと伝わる。

観音堂は本堂から徒歩5分ほどのところ、観音像はこれまで行基作と伝わっていたが、解体修理を行った際、胎内に残る書きつけにより、文永二年(1265年)の観阿蛇作と判明した。

しかし700年以上も昔の作である。

以前は十二年に一度の開帳であったが、平成二年よりその姿を毎日拝むことができるようになった。

写真は観音堂です、本堂から3分程登った所にあります。
富士泉応院の法師が比叡山で修行をしていたころ、親王から観世音像を贈られた。

のち護良親王の死を悲しんだ側室が、この観音像を守り受け、山の中腹の根光寺に祀ったのが始まりとされる。

寺は南朝方であったため、北朝の足利氏ににらまれ、本尊は誰かに投げ捨てられてしまう。

これが漁夫の網にかかり、沼のほとりに安置された。
やがて領主が観音様の夢を見て、その地を引地山日向寺と名づけたと残る。
平成23年6月18日 平成23年6月18日 平成23年6月18日
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