信濃三十三観音霊場   第一番〜第九番
 
第一番 第二番
仏眼山 法善寺 楊柳山 宗善寺
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
10世紀初頭に奈良興福寺系の寺院として創建されたと伝えられ、当時は法相宗岩龍山西谷寺と称していた。

15世紀に廃寺となったが、明応元年(1492年)に賢甫宗俊禅師を迎えて曹洞宗佛眼山法善寺となり、その後麻績城主服部清信が再興し、家庭円満の守り仏として檀徒、村民の篤い帰依を受け今に至っている。

江戸時代には徳川三代家光から十三代家定まで年八石を賜る御朱印寺として将軍家の保護を受けた。
一番法善寺より500メートルほどのところにあります。

北国脇往還・麻績宿の本陣臼居家の裏山に江戸前期の開創が伝えられるが、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、寺院は存在しません。

本尊の十一面観世音菩薩と薬師如来は臼居家当主が寄進したものであったことから、廃寺以後、代々の当主が自家に安置し護持した。

尊像は文化文政の作と推定される。平成8年より法善寺に遷座していたが、平成12年村宝に指定されたのを機に、村民の寄進により新しい六角堂が建立され、現在の地に安置されるに至った。
平成23年9月17日  平成23年9月17日
第三番  第四番 第五番
笹命山 岩井堂
(古司の尻つみ観音)
大里山 風雲庵
(清野観音)
倉科山 妙音寺
(竹ノ尾観音)
馬頭観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
開基など寺歴は不明ながら、源義経の家来だった佐藤継信と、その愛馬「するすみ」にまつわる伝説が縁起として伝えられている。

古代、信濃は優良な馬の産地であった。継信は源平合戦で戦死した信濃駒を慰霊するとともに、優れた駒を調達して奥州へ向かう任務を帯びて通りかかったこの地で、義経から賜った名馬するすみが急死してしまう。

愛馬を葬った継信から手厚い供養を依頼された村人が、後に堂を建立し、馬頭観音を祀るようになったという。
開基は不詳だが、永禄四年(1561年)年八月、川中島合戦の戦勝を祈願する武田信玄が、寺地を寄進して戦乱で荒廃した古寺を再建し、風雲庵の名称で深く信仰したと伝えられる。

翌九月、12年5回におよぶ川中島合戦のうちもっとも熾烈をきわめた第4回合戦で、武田信玄は上杉謙信と直接対決。

その際、謙信が本陣を敷いたのは、奇しくも風雲庵の隣山ともいえる位置にある妻女山だった。

廃仏毀釈で一時は廃寺になったが、信仰篤い近在の人々の尽力で復興し地域ぐるみで守り続けている。
開基は平安初期。坂上田村麻呂が、京の青年仏師に頼まれ、東征に向かう途中で当地に立ち寄り、一体の十一面観音を安置したのが始まりとの言い伝えがある。

観音像は、青年のふるさとである倉科の里に住む恋しい娘の面影を映した姿。

美しい恋人を忘れられずに京で仏師となった青年が、思いを込めて彫ったものを、征夷大将軍に託したと、伝説は伝えている。

ご朱印場所は禅透院さんに替わっていますのでご注意ください。(住所、連絡先は霊場一覧参照)
平成23年9月17日 平成23年9月23日 平成23年9月23日
第六番 第七番
洗淵山 観瀧寺
(森の観音さん)
虫歌山 桑台院
(虫歌観音)
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
平安時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂の東征に際し、妻・高子が戦勝祈願のために勧進したと伝えられる。

また田村麻呂が苦戦から救ってくれた観音の化身に感謝して、この地に開基したとの別説もある。

江戸時代に再建されたが、戦後、荒廃。尼僧さんが住んでいた時期もあるが、昭和五十年代より無住となり、地元の信徒が大切に守り続けている。

あんずの里として知られる森の農道をたどった先の高台に位置し、地元では「森のお観音さん」という愛称で親しまれている。
「虫歌山」という山名や「桑台院」という寺院名が養蚕との関わりうかがわせる通り、この地方では古くから養蚕が盛んで「むしおだの観音さん」または「むしうたの観音さん」と親しまれ、蚕を病害から守り、養蚕の隆盛を祈願する人々が熱心に参拝したという。

信心深い旅人が、無数の蚕の繭の中から響くさなぎの泣き声に驚き、僧を呼んで蚕を供養する堂宇を建てたのが始まりという昔語りも伝わっている。

一丈八尺の大きな千手観音がおまつりされている。

車は石段下のスペースか滑りそうな坂道を登ってお堂の下まで。
平成23年9月23日  平成23年9月23日
第八番 第九番
時頼山 西明寺
(吉窪観音)
蓑堂山 蓑堂
(べべ出し観音)
千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
山号である「時頼山」は鎌倉幕府五代執権を務めた北条時頼が自ら名付けたと伝えられている。

寺名の「西明寺」は、病を得て執権の座を退いた時頼が出家して名乗った「西明寺入道」にちなむ。

一説には入道が堂宇を建立し、千手観音をまつった開基ともいわれる。嘉永五年(1852年)、地元で学問や手習いを教えていた塩入離惣太という人が私財を投じて2キロほど山中より現地に移転。

以来、塩入氏が代々堂宇を引き継ぎ、観音堂は村人たちの拠り所として親しまれてきた。

ご主人は畑仕事に出ておられて奥さんに大声で呼んで頂きました。
名勝米子大瀑布への道筋に見える奇岩絶壁は雨具の「蓑」に似た山容から蓑堂山と呼ばれる。

昭和40年代の松代群発地震によりかつて本堂内に安置されていた本尊の十一面観世音菩薩は麓の樋口家宅にて大切に安置されている。

俗に「べべ出し観音」とも呼ばれるのは、急峻な坂や岩場をよじ登って参拝する際、女性の着物の裾が乱れ、後ろから登る男性の目に思わぬ“ご利益”があったからだとか。

上の写真が観音堂と思われます。

現在、お堂へは登れません、猪が出てあぶないと奥さんがおっしゃてました。
平成23年9月24日 平成23年9月23日

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