開基など寺歴は不明ながら、源義経の家来だった佐藤継信と、その愛馬「するすみ」にまつわる伝説が縁起として伝えられている。
古代、信濃は優良な馬の産地であった。継信は源平合戦で戦死した信濃駒を慰霊するとともに、優れた駒を調達して奥州へ向かう任務を帯びて通りかかったこの地で、義経から賜った名馬するすみが急死してしまう。
愛馬を葬った継信から手厚い供養を依頼された村人が、後に堂を建立し、馬頭観音を祀るようになったという。 |
開基は不詳だが、永禄四年(1561年)年八月、川中島合戦の戦勝を祈願する武田信玄が、寺地を寄進して戦乱で荒廃した古寺を再建し、風雲庵の名称で深く信仰したと伝えられる。
翌九月、12年5回におよぶ川中島合戦のうちもっとも熾烈をきわめた第4回合戦で、武田信玄は上杉謙信と直接対決。
その際、謙信が本陣を敷いたのは、奇しくも風雲庵の隣山ともいえる位置にある妻女山だった。
廃仏毀釈で一時は廃寺になったが、信仰篤い近在の人々の尽力で復興し地域ぐるみで守り続けている。 |
開基は平安初期。坂上田村麻呂が、京の青年仏師に頼まれ、東征に向かう途中で当地に立ち寄り、一体の十一面観音を安置したのが始まりとの言い伝えがある。
観音像は、青年のふるさとである倉科の里に住む恋しい娘の面影を映した姿。
美しい恋人を忘れられずに京で仏師となった青年が、思いを込めて彫ったものを、征夷大将軍に託したと、伝説は伝えている。
ご朱印場所は禅透院さんに替わっていますのでご注意ください。(住所、連絡先は霊場一覧参照) |