信濃三十三観音霊場   第十番〜第十八番
 
第十番 第十一番
妙徳山 高顕寺 明真山 清滝観音堂
(清滝観音 養蚕観音)
千手十一面観世音菩薩 千手観世音菩薩
約千二百五十年前、中国の僧行基が開山したと伝えられ、鎌倉時代末期の元徳年間には32堂の伽藍を配す荘厳な寺であったという。

本尊の千手千眼観世音菩薩は鎌倉時代末期の木彫仏で、平成19年に改修された観音堂に安置されている。明治の末頃の実話である。

村有林盗木の嫌疑をかけられた炭焼きの老人が、拷問に耐えかねて嘘の自白をし、自殺をしようとしたところ、この観音が現れて「罪は晴れる」と告げて死を思いとどまらせたという。
その後真犯人が逮捕され老人は観音様への感謝と功徳を伝えようと寺の鐘つき男として生涯を過ごした。
奈良時代、僧行基がこの地を訪れた際、桑の巨木から立木のまま1丈6尺の千手観音像を三体刻まれ、そのうちの一体は奇妙山西中腹のこの地に安置したのが起源と伝えられる。

もう2体は7番札所の桑台院と16番札所の清水寺に安置されたと伝えられ、昔からこの3寺を1度に巡礼するとご利益が大きいとされた。

奈良時代坂上田村麻呂が東国制覇の折、祈願所として堂宇を建立したとされ、最盛期には36坊・7堂伽藍をそろえ、山岳信仰の一大霊場として栄えたと伝えられる。

今は山中でとてもさびれた感じになっています。
平成23年9月23日 平成23年9月23日
第十二番  第十三番 第十四番
菩提山 無常寺
(子育観音 中見堂)
恵日山 開眼寺 姨捨山 長楽寺
(姨捨観音)
馬頭観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
無常院は天台宗の僧・誓林坊が永承三年(1048)に開基し、一時衰退したものの、天正二年(1574)に京都知恩院派の古刹として地域の信仰を集めてきた。

善光寺と同じ「立葵」を寺紋とし、古くから善光寺7院のひとつに数えられてきた由緒ある寺院である。

秘仏である銅製鋳造の本尊も「善光寺仏」と呼ばれる一光三尊の阿弥陀如来像で、善光寺の前立本尊より古い鎌倉時代中期の作と推定され、長野市の文化財に指定されている。

本堂は工事中、車の人は狭いので注意です。
ご本尊の聖観音菩薩は「日不見の観音」と呼ばれ、厨子の扉を開けることを禁じられていた。

扉を開けると北風が吹いて水害が起き、開扉した者は急死、住職にも不幸があると信じられていたからである。

昭和46年2月、本堂の屋根葺き替えに際し信者一同が厨子を移動中、突然扉が開いた。

金色の立像で、脇侍の阿弥陀如来、地蔵菩薩像とも、同じ仏師による江戸時代初期の作と推定され、藤原時代の古様式にならった洗練の彫技が見て取れ、荘厳かつ慈悲にあふれた雰囲気を持っている。
「古今和歌集」には、幾人もの歌人が「さらしなの地」や「おばすて山」を月の名所として詠んだ歌が編まれている。

縁起によれば、木花咲耶姫神の姉の大山姫は姿醜く心悪しき女神だったが、妹神の娘である姪の木の花姫から北の国の満月を見て歌に詠めば心が清まると教え諭され、はるばる当地を訪れた。

折しも中秋の秋の夜で、大岩の上から満月を見て徳念が生じ、昇天した。
叔母(=姨)姫が凡慮を捨てた岩ゆえ、以来この大岩を「姨石」 、この地を「姨捨」と呼ぶように」なったという。
平成23年9月24日 平成23年9月24日 平成23年9月23日
第十五番 第十六番
富蔵山 岩殿寺 阿弥陀山 清水寺
(保科観音)
 
馬頭観世音菩薩 千手観世音菩薩
奇岩、奇峰を持つ岩殿山の麓。別所川のせせらぎが響く自然豊かな地に位置する古刹である。

中世には七堂伽藍が立ち並び、75社4院12坊を連ねたとされ、岩殿山とその南の富蔵山一帯に広がる天台修験道場の中心寺院として格式と隆盛を誇ったが、江戸、昭和の大火で堂塔のほとんどが消失した。

火難を免れた銅製懸仏の御正体と大日如来像は国の重要文化財となっている。

なお、信濃三十三観音札所は当寺の前住職が生前、寝食を惜しんで復興に尽力され、現在に至っている。
天平14年(742)、僧行基が自ら刻んだ三体の千手観音の一体をこの地に安置したのが始まりと寺伝にあり、延暦20年(801)、坂上田村麻呂が蝦夷平定を祈願し、

その成就に感謝して伽藍を建立したと伝えられる。足利時代には八代将軍義政の篤い帰衣を受け、三十塔をはじめとする三十余の同塔を連ねた一大霊場をなした。
その後、数度にわたって火災に遭い、中でも大正五年(1916)五月の保科大火では、周囲の寺叢もろとも一山の伽藍を消失。奈良の石井寺より二十数体の仏像を迎えて再建した。

観音堂までは840mの登り、車でも行けますが是非自分の足で登って下さい。
平成23年9月17日 平成23年9月23日
第十七番 第十八番 
福寿山 関昌寺
(正命観音 今見堂観音)
金峯山 長谷寺
(人肌観音・長谷観音)
十一面観世音菩薩 十一面観世音菩薩
中世から戦国期に当地を治めた青柳氏が、元禄元年(1688)、領民の無事安穏を祈願して創建したと伝えられるが、詳細は不明である。

青柳氏は、真言宗の修験寺として坂北の山中に隆盛していた碩水寺を曹洞宗に改めて信奉したが、関昌寺はその末寺のひとつにあたり、善光寺西街道西条宿の入口に位置して関所のような役割りも果たしたと考えられている。

本尊の十一面観音像は、明治以前には近くの今見堂の本尊であったが、廃仏毀釈で堂が廃れたさい、関昌寺に移された。
信州屈指の古刹で、飛鳥時代、允恭天皇六代の孫・白助翁が善光寺如来のお告げを受け、両親の菩提供養に奈良初瀬から十一面観世音菩薩を勧請してこの地に奉安したのが始まりと伝えられる。

大和、鎌倉と並ぶ日本三大長谷観音の一霊場として名高く、木曽義仲の兵火に遭って後、鎌倉時代中期に再建された荘厳な伽藍の面影を今によく伝えている。

本尊十一面観世音菩薩は秘仏で、善光寺御開帳の翌年、四月の縁日を中心に数日間開帳される。白助翁の妻の化身にして、人の肌の温もりを失わない「人肌観音」として多くの信仰をあつめる。

当日は大護摩の準備中でした。
平成23年9月17日 平成23年9月24日
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