信濃三十三観音霊場   第十九番〜第二十七番
 
第十九番 第二十番 第二十一番
小菅山 菩提院 鷲峯山 長安寺
(岩井堂観音)
小沢山 常光寺
(岡田観音)
馬頭観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
戸隠山、飯縄山とともに北信濃の三大修験道場のひとつとして名高かった小菅山の本坊、小菅山大聖院の山内寺院のひとつ「桜元坊」を前身とする。

廃仏毀釈の際、大聖院は小菅神社となり、桜本坊が仏教寺院菩提院として残された。

この時、本尊画像の両界曼荼羅図(県宝)をはじめとする什器が菩提院に移されたと考えられている。

観音堂の片足立膝の馬頭観音は弘法大師の作と伝えられ、古くから家畜の病や災い避けに霊験あらたかと信じられてきた。
天平勝宝年間(750年前後)の頃、僧・行基が通りかかった際、奇岩・怪岩が横たわり青松が生い茂る当地を霊地と感じ、自ら千手観音を刻んで安置したと伝えられる。

その後、諸国巡歴中の弘法大師もこの地の尊厳な様子に感銘し、爪彫りの大日如来、大黒天などを安置、供養塔婆を建てたと語り伝えられている。

観音堂に安置されている千手観音は江戸時代の作。

庫裡は無住で結構荒れ果てています、観音堂は結構離れた山の中にあり探し出すのに時間をくいました。
行基作と伝えられるこの尊像は、伊那の常円寺にあったのが、塩尻の常光寺に移されたものである。

ところが廃仏毀釈で廃寺となった際に古美術商の手に渡り、大阪方面へ売られることとなった。

時を同じくして、札所巡拝の信徒であった岡沢彦治郎氏がたまたま所用で松本を訪れ、大阪への旅の途上にある観音像と出会い、古美術商を説得し買い戻したという。しばらく自宅に安置した後に、観音堂を建立し、以前の寺名を冠して21番札所を復活させた。

観音堂はりんご畑の一画にあり、道は狭いです。
横の排水溝に良くはまる車があるそうなので注意下さい。
平成23年9月23日 平成23年9月17日 平成23年9月24日
 第二十二番 第二十三番 第二十四番
羽広山 仲仙寺
(羽広観音)
瀧洞山 宝蔵寺
(岩谷堂観音)
法国山 阿弥陀寺
(岩屋観音)
 
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
弘仁七年(816年)慈覚大師が霊夢を得てこの地を訪れ、山中に求めた霊木に十一面観音像を刻んで奉安したのが開基とされる。

この時、木片のひとつに経文を書いて埋めたことから、仲仙寺の背後にそびえるその山を経ヶ岳と呼ぶようになった。

その後、数度の火災に逢うも、堂宇を寄進した歴代飯田城主をはじめ地域の人々の篤い信仰心に支えられ、その都度再建して今に至っている。

新しい山門のむこうにもう一つ山門があります。
承和元年(834年)、天台宗の高僧・慈覚大師が信濃巡礼の折、この地で一本の柳の木から三体の観音像を彫刻された。

その際、柳の胴の部分でつくった像をここに奉安したのが開基といい、「柳」「胴」に通ずる龍洞山と号したと伝えられる。

頭の部分に刻んだ尊像は28番札所の龍福寺に、根本の部分に刻んだ尊像は平等寺に安置したとういう。

切り立つ岩山の中腹に食い込むように建つ朱塗りの観音堂は、以前本堂裏の洞窟中に安置されていたことから「岩屋堂の観音さん」と呼ばれており、遠方からも参詣客が絶えなかったという。
文禄四年(1595年)、下桑村の念仏行者・河西浄西が開基し、尾張の弾誓上人が諸国を修行行脚の折、仏道修行の道場となしたと伝えられる。

開基当時は裏山の岩窟に十一面観音をまつるのみの道場であったが、諸国から多くの行者が集まるようになり、堂宇が充実。

現在も浄土宗の修業道場として名高く、仏道を志す若い僧が修行に明け暮れる姿が見られる。

本堂の左手にそそり立つ岸壁の中程にある懸崖造りの建物が岩屋堂で、この奥に十一面観音を安置し、子授けのご利益が信じられている。

そこそこの登りなので良い運動にはなります。
平成23年9月18日 平成23年9月18日 平成23年9月18日
第二十五番 第二十六番 第二十七番 
天陽山 盛泉寺
(水沢観音)
栗尾山 満願寺 金峰山 牛伏寺
(うしぶせ観音)
 
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
梓川の河岸段丘上部、北アルプスの前衛をなす山のひとつ白山の麓に位置し、天文二十一年(1552年)創建と伝えられる。

ここから1.5キロほど山へ入った水沢山一帯には、かつて行基が創建したと伝えられる若澤寺があった。

平安時代に坂上田村麻呂が安曇野の八面大王征伐に際し、この水沢観音の加護の下に勝利したことから、堂宇を寄進したとされる。

壮大な伽藍と深山のおもむきから、江戸時代には「信濃日光」と呼ばれ、隆盛をきわめた。
「信濃高野」の異称もある真言宗の古刹。寺伝によれば神亀年間(725年)頃、現地の上方山中にある長者ヶ池から一寸八分の黄金の仏像が現れ、聖武天皇の勅願によって堂宇を建立の上、安置したのが始まりという。

坂上田村麻呂が有明山の八面大王成敗の折、このご本尊に悪夢で秘策を授けられたといい、自ら刻んだ琥珀物を本尊体内に奉安したと伝えられる。

参道の入り口にある「微妙橋」は、欄干、屋根付きの美しい太鼓橋で極楽浄土への結界をあらわしている。
眼下に松本平、遥か東に北アルプスの連山を望む深山幽谷の地に10万坪余りの寺域を持ち、信濃三十三番札所中最大規模の厄除け霊場である。

寺の縁起によれば、天平勝宝七年(755年)、唐の玄宗皇帝が善光寺へ大般若経六百巻を奉納する旅の途中、経巻を運ぶ赤・黒二頭の牛がこの地で倒れた。

十一面観音の霊力を知った使者は経巻をここに納め、二頭の霊をまつったことから、寺号を牛伏寺としたという。

国の重要文化財を8体有する文化財の宝庫としても知られている。
平成23年9月17日 平成23年9月17日 平成23年9月17日
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