新上州三十三観音霊場   第十九番~第二十七番
 
第十九番 第二十番
鷲翎山 宝積寺 道法山 永心寺
菊女観世音菩薩 聖観世音菩薩
前身は、現在の寺から南・山中4㎞奥の天寿庵といわれる。

正安年間(1299~1301年)にはすでに、天台宗の寺としてかなり広い寺領を持ち栄ていた。

その後、宝徳二年(1450年)、国峯城主・小幡実高公が中興開山となり、茨城県東昌寺の即庵宗覺禅師を請いて曹洞宗として再興された。

後、二度の戦火により伽藍のすべては焼失、衰退した。

寛永七年(1630年)、十四世・石室和尚によって、それまでの東向きから本堂を北向きとして建立されたそうです。
慶安元年(1648年)、七日市藩祖、前田利孝朝臣が生母の追福供養として現在の場所に開祖、開山の僧は浄蓮社清誉上人学応和尚である。

現在のお堂は安政五年(1858年)、前田家の寄進によるものだそうです。

先年、この寺から元録十四年(1701年)に作られた版木が発見され「上野巡礼札所」の存在が明らかにされたとのこと。

「上野巡礼縁起」によると巡礼の始まりは長和三年(1014年)、「秩父札所」の文歴元年(1234年)より二百二十年前のことになります。

貴重なものがありますね。
平成22年9月4日 平成22年9月4日
第二十一番  第二十二番
龍本山 不動寺 碓氷山 金剛寺
千手観世音菩薩 十一面観世音菩薩
中山道・松井田宿にあるお寺さんです。

寛文元年(1242年)、慈猛上人により開山。

元亀・天正年間に武田信玄公から寺領を賜ったとあります。

十五世秀算僧正が家康公の命により、総本山・長谷寺の第四世能化となり、三代将軍・家光公から、ご朱印地八十九石余を拝領し、十七ヵ寺の末寺を有したそうです。

関東八十八カ所霊場の第二番札所です。
寺伝によると、源頼光四天王の碓水定光の開祖といわれている。

応永元年(1395年)、慶秀僧都当国巡化のみぎり、堂宇の頽廃を憂い、再建中興したとされます。

寛文年間、寛政年間、二度の火災に遭い堂宇をことごとく焼失、現在の建築物は亭和三年(1803年)に再建されたものだそうです。

参道は旧中山道からずーっと続いていたが、国道18号により中間を切られ、仁王門などを現在の場所に移転したとのこと。

関東八十八カ所霊場の第三番札所です。
平成22年9月4日 平成22年9月4日
第二十三番 第二十四番
威徳山 北野寺 箕輪山 法峰寺
十一面観世音菩薩 聖観世音菩薩
永和元年(1275年)、山城国醍醐寺僧・慶秀僧正の東国巡鉢のおり、開山と伝えられている。

この地は彦根藩二代の井伊直孝が幼少時を過ごした地だそうです。

幼名を井之助と言い、故あってこの下後関の郷士・荻原図書に預けられ、文録三年(1594年)から十年間、この北野寺で養育されたとのことです。

直孝は家康、秀忠、家光三代に仕え、大老職となり彦根三十五万石の藩主となったのです。

井伊の赤備えは有名ですね。
三日目はこちらから始まりました。

天安二年(858年)、比叡山・延暦寺第三世座主、慈覚大師(円仁)が東国巡化のおり開創したと伝えられる。

当寺は箕輪城の南端に位置し、「水の手曲輪」の跡で観音堂の下段辺りから湧水が豊かに流れ、旧城下町に注いでいる。

坂東十五番札所長谷寺から5㎞ほどの距離です。
平成22年9月4日 平成22年9月25日
第二十五番
船尾山 柳沢寺
千手千眼観世音菩薩
西毛から北毛の地に入ります。

創立は推古天皇の御宇(593~628年)、上野国司・高光中将の建立と伝えられる。

宝亀年中(770~781年)焼失し、承和年中(834~848年)僧円俊の再興といわれ、その後、延亭年間(1744~1748年)再中興されたとのことです。

また「船尾山縁記」によると弘仁年間(810~824年)、伝教大師が船尾山中に大寺、船尾山東覺寺楊沢寺を建立したのが始まりといわれている。

中世には講義所が置かれ、天台宗の一大学問所として盛んを極めたとあります。

比叡山・延暦寺の末寺だそうです。

駐車場からは本堂(客殿?)、五重の塔の前を通り山門を抜けた先に観音堂があります。
平成22年9月25日
第二十六番
長岡山 清見寺
聖観世音菩薩
長録二年(1458年)、浄誉西現上人によって西中之条の地に開創されたという。

当時は西見寺と称していた。

永録年間(1558~2569年)に焼失したといわれ、その後、浄土宗大本山知恩寺の法脈を継ぐ、崇誉岌山上人が中興開山した。

開基は土地の豪族・鹿野和泉守といわれている。

後、真田氏により新しい町割りがされ、現在の地に移転したようです。

写真中央の聖観音像は平成八年の建立、この地域最大の石仏像です。
平成22年9月25日
第二十七番
大峰寺 獄林寺
十一面観世音菩薩(お駒観音)
 永正二年(1505年)、雙林寺七世在天宗奝禅師を開山とし、小川城二代・小川次郎景佑公を開基に開創された。

当寺は大本山・総持寺の元輪番地として開山、元輪番地とは総持寺系末寺の中より、五院に輪住する資格のある寺院だそうです。

一年間、おのおのその派頭の五院に登り、さらに大本山総持寺の現方丈として猊座(ゲイザ)に登ったものである。

猊座:仏のすわる座。転じて、高僧の座
(仏教語は難しい。。。。。)

写真中央の観音堂は右上の山門の手前にあります。

この観音堂は享保年間(1730年頃)、月夜野出生の市兵衛が娘の供養のために建てたもの。
平成22年9月25日
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