駿河一国観音霊場   第十番~第十八番
 
第十番 第十一番
高草山  法華寺 仏谷山  安養寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
縁記によると、天平年間(729~748年)の草創といわれる。

本尊の千手観音立像は行基菩薩、奥の院(東照寺)の聖観音立像は聖徳太子の作と伝えられる。

永録十三年(1570年)、武田信玄の花沢攻略の折、兵火によって焼かれたが、本尊は焼失をまぬがれた。

江戸時代に入って寛永寺の門下に属し、時の住職が、元録五年(1692年)に本堂、その他伽藍を建立した。
伝教大師(最澄)が全国を行脚した時、この小坂の地に一宇を建立して善男善女を教化したのが安養寺といわれる。

その後、伊豆の土肥二郎実平は、治承四年(1180年)、源頼朝が兵を起こした時、真っ先に参陣したが石橋山の合戦で敗れて安養寺に落ち延び自刀したという。

今川氏との歴史は古く、亭徳三年(1454年)、興国和尚が今川範政の帰依を受けて範政の菩提寺となった。

観音堂はお寺さんから少し離れた山の中です。
平成23年4月30日 平成23年4月30日
第十二番  第十三番 第十四番
大窪山  徳願寺 天桂山  歓昌院
(元慈昌寺)
牧ヶ谷山 耕雲寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
徳願寺山の中腹にあり、開山は興国玄居で古くは大窪寺と言い、山岳密教の寺であった。

大窪寺は鎌倉初期の古写経の奥書にも登場する寺名として歴史は古い。

戦国時代、今川義忠夫人(北条早雲の妹)の菩提寺として曹洞宗徳願寺となった。

安部七観音の一つで、静岡市を代表する古寺でもあります。
開創年代と開基は定かではないが、嘉禄年間(1225~27年)の草創という。

その後、文明十二年(1480年)、甲斐の悦道和尚が寺の廃跡を再興し天桂山歓昌院と称して曹洞宗に転じた。

はじめは、長野県小県群称津村・定津寺の末寺であったが、本末争いのため甲府市塚原の恵運院下に入った。

観音札所は、初め当寺の末寺・慈昌寺であったが廃寺により合併された。
耕雲寺は十六番・増善寺の末寺であったそうです。

一時、廃寺となったが、のちに臨済宗に転宗した。

再び宗教活動を始めたのが、貞亭四年(1687年)とあります。

御禁制のキリシタンの異教徒に宗教を越えて愛の手を差し伸べたらしいことを「駿府記」がわずかに伝えているそうです。

写真左手が観音堂です。
平成23年4月30日 平成23年4月30日 平成23年4月30日
第十五番 第十六番
瑞祥山  建穂寺
(廃寺)
慈悲尾山 増善寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
白鳳年間(654~669年)、道昭法師が草創し、養老年間(717~723年)、行基が中興したという。

通称・禰宜山の麓にあったが、今は神社になっており、現在はここより左に少し離れた林富寺(廃寺)跡に観音堂がある。

古は、寺領五百石の大寺であったが、明治初期の火災により廃寺となり現在に至っている。

管理は町内会の持ち回りで行われています。
「駿河増善寺記」によると、白鳳二十一年(682年)、法相宗祖・道昭法師の草創であり慈悲寺(保檀院ともいう)として発足した。

安部七観音の霊場でもあり、行基観音が安置されている。

文明十二年(1480年)、辰応正寅禅師が再興し曹洞宗となった。

今川家七代の氏親(義元の父)は、辰応正寅に帰依しこの慈悲尾の地に大伽藍を建立して今川家の官寺とした。
平成23年4月30日 平成23年4月30日
第十七番 第十八番 
高福山  法明寺 祥雲山  慶壽寺
千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
養老七年(723年)、行基菩薩の開創といわれる。

安部七観音の発祥の地として有名だそうです。

中古、廃絶したが貞亭四年(1687年)、同じく駿河一国の霊場の十六番・増善寺十八世・雪厳薫積和尚によって中興された。

山獄仏教に属し、隣村の松野の仏教遺跡群と密接な関係があるそうです。

観音堂は本堂の左手から登ったところにあります。
南北朝のころ土岐氏を抑えて駿河に勢力を伸ばした今川二代範氏の菩提寺として創建された真言宗の古刹である。

一般には野田のお薬師さんとして親しまれている島田最古の寺として知られている。

開山は京都・泉桶寺の塔頭・竜雲院の南江宗師です。

寺には国の重要文化財の釈迦十六善神像の絵があるそうです。

観音堂は本堂の左手です。
平成23年4月30日 平成23年4月29日
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