駿河一国観音霊場  第十九番~第二十七番
 
第十九番 第二十番
音羽山  清水寺 布袋山  平澤寺
千手観世音菩薩 千手観世音菩薩
今川氏輝の遺命によって永録二年(1559年)に今川家居・朝比奈波守元長が創立した。

尊寿院大僧正・道因の開山という。

境内にある観音堂は、慶長七年(1602年)、徳川家康が建立した。

観音堂及び観音の厨子は桃山様式で、厨子は木造妻入り宮殿様式の見事なもので総漆塗り、一部に金箔がほどこされている。

この寺のある地形が京都の清水寺に似ていることから清水寺と名付けられたという。
一般に日本平と呼ばれる有度山の麓にあります。

伝承によると、和銅年間(708~715年)、行基菩薩によって開かれたという。

天正十年(1582年)に書かれた縁記によると、行基菩薩が白馬に乗ってこの地に来て千手観音を刻み、村の草庵に安置したという。

寿永年中(1182~83年)、山麓からの出火によって伽藍を焼失した。

武田・徳川の各武将の古文書も残されている。
平成23年4月30日 平成23年4月30日
第二十一番  第二十二番
鷲峰山  霊山寺 補陀洛山 鉄船寺
(旧久能寺)
千手観世音菩薩 聖観世音菩薩
古義真言宗・高野山無量光院の末寺です。

寺伝によると、孝謙天皇の天平勝宝元年(749年)、行基菩薩の開創といわれ、行基作の千手観音を安置している。

寺は駿河一国三十三観音、第十九番札所の清水寺が管理していますが普段は無住です。

参道入り口から15分ほど登ると着きます。

仁王門は室町末期、三光坊が建立したこが棟札に書かれています。

鐘は参拝者に自由に突かしてもらえます。
もと久能寺といって久能山・東照宮にあった。

寺伝によると、推古天皇のとき、久能忠仁によって開創されたと伝えられる。

永録十一年(1568年)に武田信玄が駿河を攻略した時、寺は現在の村松(清水市)に移転させられ、寺跡は山城として利用した。

江戸時代も観音霊場として栄たが、明治の廃仏稀釈により衰退、その後、山岡鉄舟の尽力によって再び駿河の名寺として再興された。

寺名が鉄舟寺となったのは山岡鉄舟の名に由来する。
平成23年4月30日 平成23年5月1日
第二十三番 第二十四番 第二十五番
巌腰山  瑞雲院 仏光山  最明寺 八幡山  大法寺
如意輪観世音菩薩 十一面観世音菩薩 馬頭観世音菩薩
延元年間(1336~40年)、足利尊氏の開基という。

本尊は、尊氏の持念仏といわれたが、観応年中(1350~52年)の戦乱に遭い諸堂を焼失した。

その後、延文二年(1357年)に今川基氏の小、仏満禅師・法忻が再興して開山となった。

厳腰山端雲院と呼んだのは、慶長十一年(1606年)、広済慈照禅師の時という。

本尊の如意和観音は延歴二十三年(804年)、伝教大師が一刀三礼して刻んだものと伝わる。
寺伝によると、弘長年中(1261~64年)、北条家・最明寺時頼の建立といわれ、寧一国師を開山とし、正徳年中(1711~16年)に晩盁和尚が中興したという。

臨済宗・興津清見寺の末寺で一般的には「物見山観音」と呼ばれている。

宝歴三年(1753年)、火災により焼失、現在の堂宇は、明和七年(1770年)に再建されたものという。

本尊の十一面観音は高さ50㎝程の木仏立像。
寺伝によると、延亭二年(1745年)九月、由比の海岸を馬頭観音が浮流するのを土地の人が発見して救い上げ、観音さまを安置する村堂を建てた。

そして村の有力者である岩辺右衛門光周の妻が開基となって寺が建立されたものという。

由比宿の古い町並みの中にあり、車の人はとめる所を見つけるのが大変かと。。。

私の場合は周りを2周してしまいました。
平成23年5月1日 平成23年5月1日 平成23年5月1日
第二十六番 第二十七番 
岩戸山  龍雲寺 明星山  大悟庵
聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
寺伝によると、今川範忠の開基。

範忠の三男・蒲原弾正氏兼は、父の没後、菩提をとむらうために、鎌倉建長寺第二世・真源大照禅師を請して開山としたといわれる。

諏訪神社東方に岩戸山常楽寺という廃寺を合併したことから、この山号をとった。
弘仁三年(812年)、弘法大師がこの地に巡錫した折り、白い絹に観音様を描いて当山の本尊としたという寺伝が残されている。

このことから、寺には白い布140反に写された観音さまがあり、70年ごとに描き改められる風習が残っている。

戦国時代、七堂伽藍は焼失したが、元亀二年(1571年)に再建されたという。
平成23年5月1日  平成23年5月1日 
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