津久井観音霊場  第二十五番~三十六番
 
第二十五番 第二十六番 第二十七番
龍渕山 増珠寺 金胤山 青蓮寺 金胤山 向瀧寺
聖観世音菩薩 聖観世音菩薩 十一面観世音菩薩
永正九年(1512年)、功雲寺(緑区根小屋)第七世・潮翁能音大和尚によって、現在地より北へ約2㎞の沢井大日野原古寺に開創。

寛政七年(1795年)、現在地に移転した。

車で境内に入れますが入口が狭いので大きい車は注意です。
寺歴については不詳。

「新編相模風土記」によれば、金胤山寿宝院と号す、古義真言宗、関東法談所三十一院の一なりと。

又、蔵王権現の別当寺院であったと記される。
本尊・十一面観世音菩薩の逗子裏の記録から、元禄十二年(1699年)、阿闍梨快恵によって開山されたものと推測される。

明治十一年に廃寺となり蓮乗院に合併された。

現在は無住で馬本地区で管理されている。

御開帳期間外巡礼:不可
平成26年05月24日 平成26年05月24日 平成26年05月24日
 第二十八番 第二十九番 第三十番
牧野山 蓮乗院 金谷山 長昌寺 願廣山 井原寺
如意輪観世音菩薩 如意輪観世音菩薩 聖観世音菩薩
弘安八年(1285年)、鎌倉・極楽寺開山の忍性津師が甲州へ行く途中、堂ヶ尾山天徳堂を創設したと伝える。

後、円海蓮乗法師が天徳堂から根本へ尊像を写し、牧野山天徳寺と改めたと伝える。
第三世・乗兼忍海律師の時、先師の僧号を院号とし、牧野山典徳寺蓮乗院と改めたという。

境内を歩くと奇音が鳴り響くので何かと思ったら、動物避けだそうでした。
明治の初期まで、青根地区には平丸に長昌寺、上野田に泉福寺、東野に長蔵院の三ヶ寺があった。

長昌寺は明治十五年、大火で焼失、当時の住職・正岡禅照和尚は無住だった泉福寺に住み、大正二年に泉福寺を合併して長昌寺を継いだという。

参拝当日は法事が行われていて、観音様を拝むことができず、外からの参拝となりました。
ガイドブックに寺歴が乗っていますが、細かくて書ききれません。

慶長十二年(1608年)示寂の洞昌院(伊勢原市)第三世・学峰守養大和尚の時、曹洞宗の寺になったらしいとのことです。

丁度、マクロバスで来た参拝者と重なり賑やかな中でのお参りになりました。
平成26年05月24日 平成26年05月17日 平成26年05月17日
第三十一番 第三十二番 第三十三番
毘盧山 安養寺 金徳山 光明寺 長竹山 来迎寺
千手観世音菩薩 聖観世音菩薩 聖観世音菩薩
永年無住のため、縁記などの書物はないそうです。

「新編相模風土記」によると、「南北朝、正慶元年(1332年)入寂された妙厳和尚が開山し不動明王と毘沙門天を本尊とする」とあります。

御開帳期間外巡礼:不可?
旧称は桐谷宝積寺、健久年間(1190~99年)、退耕行勇和尚の草創で台密、禅兼学の寺であったと伝えられる。

文永年間(1264~75年)に鎌倉・建長寺開山・大覚禅師留錫以来、禅学だけを専学する寺に変わったと言う。

徳川幕府からは官寺に準ずる寺格と葵紋章を許されたとあります。
貞治六年(1367年)、雲居寺第二世・心香妙清禅師の開山。

当初の本尊は阿弥陀如来であったと推測されるが詳細は不詳。
明治初期に聖観世音菩薩とされ、同時期に山号も長竹山となったようだとのことです。

御開帳期間外巡礼:不可?
平成26年05月17日 平成26年05月17日 平成26年05月17日
第三十四番 第三十五番 第三十六番
宗安寺 亦野山 実相院 紅葉山 龍泉寺
釈迦如来 千手千眼観世音菩薩 聖観世音菩薩
寛永年間、宗安寺・真快僧都の開基。

明治維新まで中野神社の別当を兼ねていたそうです。

永年無住で荒廃していたそうですが、今は立派な本堂が建っています。
長禄三年(1459年)寂の賓相院頼久上人の開山。

立派な千十千眼観世音菩薩像が祀られています。
思わず除き込んでしまいました。

御開帳期間外巡礼:不可
文明四年(1472年)以前に仁室和尚他二名で寺の計画をする内、暁峯説演和尚によって長谷原に龍泉庵が創建され、その後、松田左衛門(北条氏茂配下)の帰依によって確立されている。

元和六年(1620年)、道元禅師十八世の法孫で洞昌院(伊勢原市)四世の観峰守察大和尚によって法地を起立する。
(この時現在地に移ったと推測される)
平成26年05月17日 平成26年05月17日 平成26年05月17日
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